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2022年11月18日

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玉村 治 (たまむら・おさむ)

スポーツ科学ジャーナリスト、科学ジャーナリスト

小学校より野球をはじめ、大学では投手として活躍。スポーツを科学的に分析することを得意とし、バンクーバー、ロンドン五輪、ワールドカップサッカーなどで取材。

部品屋脱出できず

 三つ目は、個々の部品の技術力はすごいが、それを統合して魅力的な商品(最終製品)を世に送り出せなかったことだ。端的な例がアップル社のiPhoneだ。最大iPhoneの6割近くが、日本のメーカーが作った部品なのに、それを集めてiPhoneのようなスマホを作れなかった。

 日本メーカーの状況を端的に示すのが次のエピソードだ。84年に、当時東芝の技術者だった舛岡富士夫氏は、世界で初めてNAND型フラッシュメモリを開発した。しかし、その重要性は正当に評価されず、舛岡氏は、東芝を辞し、東北大学教授に転身した。

 フラッシュメモリは、一瞬にしてデータを消すことができるところからそのように名付けられたが、舛岡氏が発明して以来、デジタルカメラや携帯電話や携帯音楽プレーヤーの主要部品となって今日に至っている。用途を見出したのも海外企業である。

 東芝でフラッシュメモリ開発に携わった元技術者の竹内健氏(現在、東京大学大学院教授)は、著書『世界で勝負する仕事術』の中で、開発したフラッシュメモリを、どう活用していくか、日米の技術者の発想、姿勢の差を以下のような趣旨で指摘している。

 「アップル社は、箱屋(部品を集めて仕上げ。セットベンダー)と呼ばれるが、技術者自らが商品の打ち合わせに参加した。『アップルに技術はない』は誤解。半導体技術を深くまで理解し、どう部品を組み合わせて活用していけば、新しい製品が作れるかを常に考えていた。メーカーに注文を出すくらい開発をリードした」という。

 一方で、「日本の顧客であるソニー、松下電器、富士写真フィルム社は、技術者でなく、部品調達の部門の人しか現れない。どんな製品を作るより、安く買うしか頭になかった」と振り返った。

 デジタルカメラからiPodの登場で、フラッシュメモリの需要は飛躍的に伸びたという。

内向き志向のままだった日の丸企業

 四つ目は、国内にばかり目を向け、海外企業と連携がなかったことだ。韓国も80年代半ばから政府の支援を受けてサムスンなどの財閥が半導体製造に乗り出した。日本と異なるのは、国内市場だけでは生き残れないと早い時期からシリコンバレーなどの海外ベンチャー企業と連携を深めていたことにある。

 その結果、サムスンは91年に世界初の「16M DRAM」を発売、翌年には「64M DRAM」の開発に成功。92年にはDRAM市場では東芝を抜いて、世界一に躍り出た。日本は、バブル崩壊で多くの技術者がリストラされ、トップ企業にいた70数人の技術者が高給待遇の技術顧問としてサムスンに移籍したのは、よく知られている。

 94年から95年にかけて、日本のNEC、東芝などはサムスンとの共同開発・製品情報の供与契約を締結。さらに96年には、通産省(当時)が「日の丸半導体」の優位性維持を狙い、コンソーシアム「半導体先端テクノロジーズ」を創設。日本メーカー以外に、サムスンの加盟を認めた。

 しかし、日本企業の動き、通産省の施策は、皮肉にもその後のサムソンの躍進の礎となった。経済安全保障の観点からは外れた施策といっても過言ではない。

 サムスンは、97年にアジアを襲った通貨危機で、巨大企業へと変貌を遂げる足がかりを得た。韓国政府は、世界通貨基金(IMF)支援の下、多くの財閥系企業を整理するとともに、倒産寸前だったサムスンらに公的資金を投入した。海外に目を向ける改革を行う一方で、サムスンは2000年代に入ると液晶ディスプレイ(LCD)事業や携帯電話事業へ本格的に投資した。

 一方、日本は迷走した。国内大手企業は、半導体事業を切り離して連携し、エルピーダメモリ、ルネサンスエレクトロニクスなどを設立した。それら〝日の丸企業体〟は度重なる経済危機によって、撤退(倒産)やリストラに見舞われた。価格と開発スピードに勝る、韓国、台湾企業との競争に敗れた形で、再び、多くの技術者が転職を余儀なくされ、海を渡った人も少なくなかった。

 サムスンは2009年薄型テレビ、半導体メモリで世界トップとなり、世界最大のIT・家電メーカーとなった。携帯電話も2位のシェアを誇り、白物家電も上位を占め、日本のお株を奪った。

 この間、日本政府は、明確な施策を打ち出せなかった。韓国、台湾だけでなく中国も大規模な補助金、減税を実施、国内産業を育成した。日本企業も、バブル崩壊による、デフレマインドが長引き、新たな投資に資金を回せなかった。

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