日本の敗戦で、米国は黄禍論から解放されたのか?
こうした米国の過度な日本への敵意の中で、日本も米国を苛立たせるようなことをしていたのもまた事実である。その一例は、当時日本軍が中国大陸で配布している小冊子がそれである。1882年の移民法制定以来、米国への中国人移民の入国や帰化は禁止されており、いくら米国に味方しても、米国人は中国人を差別しており、中国人は米国に移民することも帰化することもできないと書かれており、中国人の米国に対する不安を煽っていた。
このような日本軍の宣伝が説得力を持つ可能性を重く見た米国政府は、中国人排斥法の廃止に動いた。結果として、1943年に中国人排斥法は廃止されたが、1年間に認められた移民の数は僅か105人であり、便宜的な改正であったことは明らかである。
もう一例は、同じ1943年に日本が開催したアジア諸国の首脳会議である大東亜会議である。日本の他の参加国はタイを除けば満州国や中国の汪兆銘政権など日本の傀儡国ばかりであったが、米国のメディアの一部はそのような日本の動きを危険視した。例えば、『ニューヨーク・ヘラルド・トリビューン』紙は、守勢に立たされた日本は必至で中国と手を結ぼうとするとして、もし、それが実現すれば極東の戦局は大きく変わるだろうと、日中連携の可能性を懸念した。
このような中、戦局はますます日本に不利になり、日本軍は追い詰められていった。1945年4月にルーズベルト大統領が病死し、後を継いだトルーマン大統領は日本に対する原子爆弾の投下を許可した。原爆投下の理由として、トルーマンは「ケダモノを扱うときはケダモノとして扱わなければならない」と記している。また、カナダのマッケンジー・キング首相も、原爆が欧州の白人種ではなく日本人に対して用いられたことを、「幸運」と表現した。
度重なる空襲によって日本の主要都市は壊滅し、米国を中心とする占領軍のコントロール下におかれることになる。米国は第二次世界大戦を共に戦った中国国民政府との友好関係を維持することで、黄禍論的悪夢からようやく解放されるはずであった。しかし、中国共産党の勝利によってその目論見は外れ、また、誰もが予想だにしなかった戦後日本の急速な発展によって、再び黄禍論が沸き起こることになる。
次回は戦後世界における黄禍論の展開を見ていきたい。