いまから80年前の1942年6月5日(日本時間)、日本海軍の第一機動部隊、いわゆる南雲艦隊が発進させた索敵機の1機が敵空母艦隊を発見し、電報で報告した。そのとき、日本側の空母4隻の搭載機は、対艦攻撃用の魚雷や徹甲爆弾から、米ミッドウェー基地攻撃用の陸上用爆弾へと、装備を積み換えているさなかであった。この報を受けて、山口多聞第二航空戦隊司令官は、南雲忠一長官に対して「直ちに攻撃隊発進の要ありと認む」と具申したが、南雲は山口の意見を容れなかった。
このとき即座に発進が可能だった攻撃隊は、山口が率いる空母「飛龍」・「蒼龍」艦上で陸上用爆弾を搭載していた爆撃機36機であった。この時点で南雲艦隊は敵航空機から絶え間ない攻撃にさらされており、飛行可能な戦闘機はその迎撃に使用されていた。山口は、味方の戦闘機による護衛が得られず、大きな損害を受ける可能性が高いものの、この戦力でも敵空母には相当な打撃を与えうるものと観測し、この機会を逃さないことを重視したのである。
それに対し南雲は山口の提案を退け、その代わりに護衛戦闘機を随伴させ、対艦攻撃用に再度の兵装転換を終えた4空母の搭載機によって敵艦隊を攻撃することを決定した。また、その準備中に、この日の早朝からミッドウェーの空襲に向かわせていた約百機の攻撃隊を、それぞれの母艦に収容することとした。
この攻撃隊の準備には最低2時間は要するが、その間に敵の空襲が続くとしても、艦隊護衛の戦闘機によって撃退できるという判断が、その根底にあったといえる。
明暗を分けたのは「運命の五分間」ではない
史実として、攻撃隊の発進前に「赤城」・「加賀」・「蒼龍」の3隻の空母が被爆して大火災を生じ、日本側が海戦の主導権を失ったのであるから、この決定は失敗であったことになる。
なお、3空母の被爆炎上が日本側の攻撃隊発進完了のわずか5分前であったという、いわゆる「運命の五分間」説が戦後長く広まっていたが、1971年に刊行された防衛研修所編纂の公刊戦史『戦史叢書・ミッドウェー海戦』(朝雲新聞社)では、「3空母は被爆時に攻撃隊の準備を終えておらず、兵装転換の作業中であった」旨の記載がある。「運命の五分間」説へのこのような否定的見解を採るならば、南雲の決定は、決定時の予想よりも攻撃隊準備に相当長い時間を要し、戦闘の見通しを誤ったものとして、いっそう批判を受けることになる。