2024年4月25日(木)

日本人なら知っておきたい近現代史の焦点

2022年12月6日

 では、なぜ軍部のみで『国防方針』を策定する事態になってしまったのだろうか。一つの理由としては、前述の統帥権独立制度の存在があるだろう。しかし『国防方針』は明らかに純軍事の範疇を超えた外交的・財政的問題を包蔵しており、制度の存在が直截的に政府の排除に結びついたと考えるべきではないであろう。軍部が同方針の策定後に西園寺に審議・内覧を求めたことからも、軍部自身も同方針を純軍事的問題とは見なしていなかったことが分かる(対照的に明らかに純軍事的な「帝国軍ノ用兵綱領」は見せていない)。

 むしろ、軍部は極めて高い安全係数の下で設定した仮想敵国・所要兵力が政府の賛同を得られない事態を見越して、意図的に政府を排除したと考えるべきだろう。そして軍部があえてそのような行動に出た背景には、日露戦争後の軍部の政治的威信の増大と、「政党内閣」(第一次西園寺内閣)への不信があったと考えられる。

西園寺公望の淡白な対応

 他方、政府側にも問題がなかったわけではない。『国防方針』の審議と内覧を求められた西園寺は、政府を排除して作成された同方針に一切異議を唱えることなく、同方針の内容に賛成し、ただ軍拡を実行する際には財政との斟酌を求めるとの要望を付しただけであった。そのため結果として、西園寺は統帥事項を拡大解釈して政府を排除した軍部の行動を是認したことになってしまった。

 あるいは西園寺自身、政府を除外して国家安全保障戦略を決定した軍部の行動を特段不適切なものとは考えていなかった可能性もある。後年、この時の対応が問題になった際、西園寺は「夫れは軍事当局者のみの間に於て決定したるものにて閣議の決定にあらず」と弁明しているが、それならば『国防方針』の審議・内覧を求められたときに強く留保なり抗議なりすべきである。

 現代的価値観や後知恵を歴史評価に持ち込むことは微妙な問題を孕んでいるが、その後の歴史推移を考えれば、西園寺の淡白な対応はやはり禍根を残すものだったと言わざるをえないだろう。なんとなれば、国家的安全保障戦略策定の嚆矢であり、軍部にも政府に一定の遠慮があったと思われるこのタイミングこそ、政府関与の先例を作る最大のチャンスであったと思われるからである。


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