そもそも軍というものは軍事的要素を重視して、軍事的合理性から世界を把握する組織である。また同方針を主導した山県有朋は、対外問題に関しては誰よりも慎重であり、同時に安全係数を高く設定する傾向があった。その結果が同方針の仮想敵国であった。もっとも軍が純軍事的要素を重視することそれ自体は別に悪いことではない。問題は政府(外務省)が関与しなかったことで、外交的観点からの軌道修正が行われず、適切な費用対効果計算の前提が崩れてしまったことである。
財政面の裏付けを欠いた「大軍拡」
その弊害は所要兵力量に発現した。同方針では国防に要する兵力を、陸軍は極東ロシア軍との戦闘を想定して平時25個師団(戦時は2倍動員して50個師団に拡張)とし、海軍は米国艦隊との戦闘を想定して艦齢8年以内の戦艦8隻・装甲巡洋艦8隻を中核とする「八八艦隊」とした。
陸軍の現有兵力(日露戦争終結時)は平時17個師団であったから、実に8個師団の増設が必要ということになる。ちなみに師団とは各種の兵種(歩兵や砲兵、輸送兵など)をパッケージングした基本の戦略単位で、人数は時代や国、時々の編制によってかなり差があるが、当時の日本では平時で1万人程度(戦時は増員されて2万人程度)となる。
海軍の現有兵力(1908年当時)は、ロシアからの鹵獲(ろかく)艦も含めて戦艦11隻・装甲巡洋艦11隻であり、さらに新造艦も建造中であった。これだけ見れば所要兵力はすでに達成しているように思われる。しかし、最新技術の粋を集めた海軍艦艇は建造直後から陳腐化が始まり、10年も経てば旧式艦と言ってよい。そのために八八艦隊は「艦齢8年以内」との条件が付されていたのである。
しかも1906年には英国で既存の戦艦概念を覆す画期的な「ドレッドノート」型戦艦が竣工しており、海軍現有の戦艦はその意味でも陳腐化していた。海軍の評価によれば、現有の戦艦の大半は明治40年代半ばには第一線戦力として期待できなくなり、新造艦との入れ替え(代艦)が必要であった。また八八艦隊が完成した後も代艦は半永久的に必要となる。
つまり陸海軍共に所要兵力の実現のためには莫大な予算が必要となるのであるが、問題は政府(大蔵省)を『国防方針』策定に関与させなかったため、財政的裏付けが皆無であったことであった。すなわち、そもそも財政的に計画が可能なのか、可能としたらそれはいつ実現するのか、全く見通しが立たなかったのである。