教師を失った日本軍
日露戦争は軍事のテクニカルな側面でも変化をもたらした。明治建軍以来、帝国陸海軍は列強の軍隊を模倣することで成長してきた。陸軍は主にフランスやドイツから、海軍は主に英国から軍事技術や用兵思想を学んだ。その貪欲な知識欲の成果が日露戦争の勝利であった。
しかし、日露戦争は世界最新の戦争であったが故に、戦争が終了したとき帝国陸海軍は学ぶべき「教師」を失ってしまった。最新の戦争の様態を世界のどの列強よりも知っているのは日本だからである。日本は自らの戦争経験から独力で戦訓を導き出さなくてはならなかった。
日露戦争の戦訓は、戦後続々と改訂された各種操典に表れている。操典とは一種の戦闘マニュアルである。近代的軍事組織においては、戦闘方法・部隊運用方法の画一化が重要視され、マニュアル化される。部隊ごとに戦闘方法・部隊運用方法が異なっていたのでは、統一的な戦争指導が困難になるからである。1909年に「歩兵操典」が改訂されたのを皮切りに、「砲兵操典」「輜重兵(※兵站など後方支援担当)操典」(1910年)、「騎兵操典」(1912年)と改訂が続いた。日露戦争以前の操典は、基本的に列強(仏独)の直訳・模範であったが、この時の改定を以て、帝国陸軍の独自性が体系的に表れるようになったとされる。
では新操典の特徴とはどのようなものであったのだろうか。ここでは「歩兵操典」を例に見てみよう。第一の特徴は精神主義の強調である。新操典では「必勝の信念」や「攻撃精神」がことさらに強調され、「忠君愛国」の精神が謳われることになる。
第二の特徴は白兵突撃主義の強調である。改訂前の操典は「歩兵戦闘は火力を以て決戦する」とし、戦闘の中心を小銃射撃に置いていた。これに対して改定後の操典は「歩兵の戦闘主義は白兵にして」「銃剣突撃を以て敵を殲滅するにあらざれば戦闘の目的は達し得られざる」とし、「射撃は此の白兵を使用する為に敵に近接するの一手段」とされた。