当時は合理的ではあった白兵主義
なぜこのような内容の改訂が行われたのだろうか。一見この改訂は、明治維新以来、近代化に邁進し、ついに大国ロシアを破って世界列強の一員に躍進したはずの日本が、戦勝の驕りから前近代的で非科学的な精神主義・肉弾主義に退行したかのように見なされがちである。しかし、先行研究の積み重ねから、改訂の背景はそのように単純なものではなかったことが分かっている。
日露戦争は過去の戦争に類を見ない大量の火力が戦場に投入され、戦況は凄惨を極めた。敵砲火による全滅を防ぐため、歩兵戦闘は密集戦法から散開戦法に変化しつつあった。こうした状況下、動揺した兵士に消極的傾向が蔓延し、また散開した戦線で指揮官が個々の部下を掌握しきれない場面が続出した。新操典の精神主義の強調は、かかる状況下でも兵士が自発的に戦闘行動を継続しうる強靭性の獲得を狙ったものであった。
また日露戦争を通して、国力で劣る日本は兵力・装備双方で劣勢のまま戦闘を継続しなければならない事態にしばしば陥った。そしてその傾向は、将来予想される列強との戦争でも基本的に継続されると考えられた。もちろん、兵力・装備で列強に伍す水準に到達できれば最上ではあるが、それが当面は困難な以上、無形的力(精神力)で有形的力(兵力・装備)の劣勢を挽回しようとする発想は、ある種の軍事的合理性に基づくものであった。
さらに前述の『国防方針』の策定に伴い、増員のために徴兵期間を3年から2年に短縮することになったことも、短期間で一人前の兵士を育成する必要上から精神主義の強調につながったのだと考えられる。
白兵突撃主義の強調も日露戦争の教訓に基づくものであった。伝統的に白兵戦闘を得意とするロシア兵に、日本兵がしばしば苦汁を舐めたこと、ロシア兵の抵抗の頑強さゆえに、火力攻撃(日本砲兵の戦闘効果は概して低調だったとされる)だけでは敵の抗戦意欲を挫くことはできないと考えられたことも、逆説的に白兵戦闘の重要性を強調することにつながったとされる。
もっとも改訂の背景に「日本古来の戦闘手段は源平時代より今日に至る迄白兵主義」で「世界独特の妙技」と考えるような根拠薄弱な非科学的発想がなかったわけではない。しかし、精神主義や白兵突撃主義が広く陸軍部内で受け入れられた裏には、やはり相応の合理性があったのである。
しかし、いかに合理的背景があろうとも、精神主義や白兵突撃主義の強調は、長期的に見れば多くの負債をもたらすものだったように思われる。そもそもの発端がいかに合理的発想に基づくものであったにせよ、ひとたび操典に記され定理化された結果、それは批判を許されないドグマとなってしまった。結果、有形的劣勢を無形的優勢で克服しようとする発想は、短期的には有効だったかもしれないが、無形的能力の過大評価につながり、有形的遅れはやがてごまかすことが不可能なまでに広がっていくことになるのである。
浅野和生『大正デモクラシーと陸軍』(慶應義塾大学出版会)
小野圭司『日本戦争経済史』(日本経済新聞出版)
黒野耐『帝国国防方針の研究』(総和社)
原敬『原敬日記』3巻(福村出版)
原剛「歩兵中心の白兵主義の形成」『軍事史学』161・162合併号(錦正社)
藤原彰『日本軍事史』上巻(日本評論社)
80年前の1941年、日本は太平洋戦争へと突入した。当時の軍部の意思決定、情報や兵站を軽視する姿勢、メディアが果たした役割を紐解くと、令和の日本と二重写しになる。国家の〝漂流〟が続く今だからこそ昭和史から学び、日本の明日を拓くときだ。
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