私たちが普段当たり前のように使っている言葉。「美しさ」や「正しさ」を日常で気にすることはあるかも知れないが、もっと根本的な言葉がどのように理解されるかまで考えることは少ない。言葉を科学的に研究する言語学を専門にし、5月に『日本語は「空気」が決める 社会言語学入門』(光文社新書)を上梓した一橋大学国際教育センター・言語社会研究科准教授の石黒圭氏に、「美しさ」や「正しさ」に代わる、日本語の新たな捉え方について聞いた。
――日本語の「正しさ」について書かれた本が書店には並んでいます。そうした本への懸念として本書を書かれたのでしょうか?
石黒圭氏(以下石黒氏):おっしゃるとおりです。日本語を「正しさ」の次元からではなく、「ふさわしさ」の次元から考えてほしいという思いを込めて、本書を書きました。
「美しい」「正しい」という二つの形容詞が、昨今、売れる日本語本のキーワードになっています。しかし、言葉を科学的に、つまり客観的に捉える言語学者は、この二つの形容詞を危険視しています。なぜか。それは、いずれも主観の問題に過ぎないからです。
たとえば、「おやじ」という言葉は醜く、「お父様」という言葉は美しいのでしょうか。そんな単純化はできないでしょう。「おやじ」に美と愛着を感じる人もいますし、「お父様」に美を見出さず、嫌味だけを見出す人もいます。
また、「あいつ」と言われれば、見下されているようで普通は腹が立ちます。ところが、名探偵コナンで毛利蘭が幼なじみの恋人である工藤新一を思い出して「あいつ」と口にするときは、万感の思いがこもり、そこには美が存在するように思えます。結局、どの言葉が美しいかどうかは一概には言えないのです。
また「正しい」という言葉にも問題があります。