「商店街は2030年代まで、生き残ることができるのか」
こう危惧するのは、北九州市の魚町商店街振興組合の梯(かけはし)輝元理事長である。1951年、日本で初めて公道上にアーケードを建設した「魚町銀天街」は、やはり日本で初めて2018年に「SDGs商店街」を宣言した北九州市の中心的な商店街。江戸時代から続く魚河岸を起源とし、JR小倉駅から市民の台所としてにぎわう旦過市場まで、南北へ約400メートル続く通りには約160のさまざまな店が軒を連ねている。
昭和40年代後半のピーク時には歩行者通行量はおよそ4万人を数え、歩くにも肩と肩が触れ合うようなにぎわいを誇った。しかし、郊外へ大型店の出店が続くと通行量は1万人ほどにまで減少し、空き店舗が目立つようになっていった。
商店街と新聞紙の共通点
梯さんは自著『滅びない商店街のつくりかた』(学芸出版社)で商店街の存在意義について考察し、商店街と紙の新聞には社会的構造の類似点があることを指摘している。
「払い下げにより所有する土地や市場性を排除する日刊新聞紙法によって守られている新聞社の存在は、商店街の存在を想起させる。新聞紙と同様、商店街の顧客は中高年以上の方だし、新聞社は残紙、商店街は補助金という生命維持装置によって命を長らえている。ネット時代に乗り遅れているのも同様だ。(中略)商店街も存在意義(レゾンデートル)を究極まで見つめつつ前に進むほかはないと思っている」(同書202ページ)
商店街で生まれ、そこで親の事業を継ぎ、長きにわたって商店街と向き合ってきた彼が見出した商店街の存在意義、その一つが持続可能な開発目標(SDGs)への取り組みである。SDGs に掲げられた17のゴールの4番目「質の高い教育をみんなに」と11番目「住み続けられるまちづくりを」を活動の中心に据え、普段の商いの中で取り組むことで、それぞれの事業主が地域の将来への問題意識を持ち、その解決のために「自分に何ができるか」と意識が変わりはじめているという。
こうした問題意識を持ち、商店街の存在意義の模索する梯さんゆえに、「商店街は2030年代まで、生き残ることができるのか」という彼の言葉は重い。たしかに、「買物の場」「商業集積」としての商店街の先行きに明るい兆しは見いだしづらい。