2024年12月4日(水)

世界潮流を読む 岡崎研究所論評集

2013年7月2日

 米Foreign Affairs誌5月28日のサイトで、Soner Cagaptay米ワシントン中東政策研究所上席研究員は、トルコのソフト・パワー外交には限界があり、シリアでの内戦は、ハード・パワーの重要性をトルコに認識させ、トルコは米国との関係をより緊密にすべきである、と主張しています。

 すなわち、トルコは隣国との問題ゼロを目指してきたが、シリアでの内戦に直面して、トルコのソフト・パワー外交は無力だった。トルコは、シリア内戦の影響を受け、地域内ではイランに対抗しえなかった。トルコ指導部と国民は、トルコが米国が主導するNATOを安全保障上必要としていることを認めるべきである。

 エルドアン首相と正義開発党(AKP)が2002年に政権を取った時、トルコはヨーロッパの方を向くことを止め、その代わりに1923年のオットマン帝国解体で失った地域での指導力を回復しようとした。AKPはそれを軍事力ではなく、ソフト・パワーで実現しようと考えた。そのやり方は、中東での伝統的なやり方とは異なる。

 トルコは、中東の全ての隣国と緊密な外交関係を追求した。イラク、シリア、イランで高官級の訪問が行われ、トルコのプレゼンスは高まった。トルコは米国から自立することを重視し、2005年セザール大統領は米国の反対を押し切ってシリアを訪問した。政治関係以外では、トルコ航空は中東への路線を拡大し、中東からの旅行者も増えた。トルコ経済はサウジ・アラビアやイランを凌ぐまでになった。トルコの輸出は増加し、トルコのテレビ・ドラマもアラブで人気を博した。トルコはアラブの春で建設的な役割を果たしたとされ、エルドアン首相の評価は高まった。 

 しかしその後、2011年、シリアでアサド政権への反乱が起こった。トルコの指導者は当初アサド政権を改革の方向に説得しようとしたが、アサド大統領は言うことを聞かなかった。その後、トルコはエジプト、サウジ・アラビア、イランとの4者共同でシリア問題を交渉で解決しようと働きかけたが、それはイランから拒否された。イランは、ハード・パワーを重視した政策で、アサド政権を支持した。トルコも北部シリアの反政府側を支援するなどしたが、イランとバランスを取ることは難しかった。それに、トルコのソフト・パワー外交は、ここでも限界を示した。トルコは宗派対立を乗り越えようとしたが、アサド側をシーア派のイラン、イラク、レバノン等が支持し、トルコはカタール、サウジ・アラビアと共にスン二派を支持しているように見られた。シーア派内でのトルコの人気は急落した。イラクのマリキ政権との関係は悪化し、通商ルートも閉ざされた。今トルコは、中東への物流を、イスラエル経由のルートに頼っている。


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