2024年4月20日(土)

WEDGE SPECIAL OPINION

2023年3月20日

公共的なこと=行政(官)の意識が強すぎる日本人

「他人ごと」である理由としてもう一つ、底流にあるのは、日本では明治以来、社会的・公共的なことは行政(官)が担うという意識が、官・民双方ともに大変強いということだ。特に、戦後日本は全国一律にインフラ整備や社会保障制度を進めることで、高度経済成長と比較的安定した社会を実現してきた。

 半世紀にわたる成功体験が、「公共的なことは行政が担うもの(公=官)」という意識を官・民にすっかり定着させてしまった。

 一方、欧米ではパブリックという言葉は「公共=みんなのこと」を意味すると同時に「民衆=自分たち」を意味する。とりわけ米国人は納税者意識が強く、公共分野における税金の使い道を厳しく追及する。パブリック(みんな)のことはパブリック(自分たち)が担うのが原則であり、官には、その一部を納税とともに委託しているという意識だ。つまり、原則が「自分ごと」なのである(下図)。

 そして、日本では「他人ごと」であるがゆえに、国民の求める行政ニーズは膨張し続け、政治はそれにどんどん応じる関係が続いてきた。その結果が世界最悪の財政状況だ。

 加えて、第一次地方分権改革から20年以上が経過し、この間、国から地方への形式的権限移譲が進んだが、条例制定や財政運営に関する自治体の独立意識や能力が高まったという印象はない。

 例えば新型コロナウイルスのワクチンに関して、「臨時接種」は法定受託事務であり、実施主体は自治体(市区町村)だ。しかし、厚生労働省が「予約制」を決めて自治体に一律にやらせようとする。21年に厚労省が出したワクチンに関する「通知」は350回に及ぶといわれている。

 一方で、自治体にも「国の指示で」という名目の責任逃れが目立つ。例えば、「ワクチンのロット管理、温度管理、接種記録だけ守ってくれれば、それ以外のことは無視しても構わない」という河野太郎ワクチン担当大臣(当時)の言葉に対して、「厚労省の通知を無視しても良いという通知を出してくれ」といった声が一部の首長から出る始末だ。

 地方議会の条例制定能力や予算のチェック機能などの能力を高めるためには、国も自治体を信じて任せ、「育てる」という視点を持って、「国の支配と地方の依存」という構図から脱却しないといけない。


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