地方議会に対する住民(国民)の関心低下に歯止めがかからない。まもなく、4年に1度の統一地方選挙だが、議員のなり手不足の深刻化はそれを象徴している。前回の2019年統一地方選における無投票当選者の割合は、都道府県議会が26・9%、町村議会は23・3%だ。ざっと、4人に1人が無投票当選ということになる。投票率も都道府県議選や市議選、町村議選など、すべてにおいて低下傾向だ。
なり手不足解消に向け、国は昨年12月、地方自治法の一部を改正し、個人事業主の場合、自治体との取引額が年間300万円以下であれば、議員との兼業が可能になった。
だが、これらはなり手不足という「現象」への弥縫策にすぎず、地方議会の存在感を高め、住民(国民)の関心を高めるための抜本策にはならない。
私はかつて、『Wedge』誌06年4月号で「地方議会を改革せずして小さな政府はない」という小論を書いた。地域のために、自ら政策を打ち出す資質がない地方議会を放置して権限と財源を移譲しても、地方自治はよくならない、ゆえに地方議会のあり方についてきちんと議論すべきだ、ということを指摘した。あれから17年経つが、地方議会をとりまく状況は改善されないどころか、もっとひどくなっている。
政治・行政の「他人ごと」は為政者にとって都合が良い?
どうしてこんなことになるのか。
根底にある問題として私が感じるのは、多くの人が地方議会を含む地方自治というものに対して「他人ごと」で、「自分ごと」として受け止めていないことだ。
私たちが採用している「民主主義」とは、大まかに言って次のような仕組みだ。
住民(国民)が平等に投票権を持ち、自分の利害や意思を反映してくれる代議員を選ぶ。議員は政策や予算の使い方を議論し、決め、それを行政機関が執行する。そして行政機関は執行状況や効果に関する情報を公開する。有権者はそれらの情報に関心を持ち、次の投票の機会に生かす。さらに、有権者と政治・行政の間で報道、解説、批判などを行うジャーナリズムやアカデミアの役割も重要だ。
だが、社会が安定し、国民生活が豊かになれば政治や行政は人々の日常の関心事項から遠ざかり、個人の生活に関心が向く。為政者の側にも似たような状況がある。なぜなら、国家や地域の命運がかかっているような問題がなければ、政策の手直しや目の前の予算配分の見直しなどをこなしていれば、政治家としての権力や肩書きを維持してそれなりの生活をしていくことができるからだ。
こうやって政治・行政の「他人ごと化」が進めば進むほど、政治は「民主主義的」制度と手続きに沿って「粛々と」進められるようになる。形式や手続きを整えてさえいれば、肝心の「中身」は重視されないどころか、公正性、透明性も十分に確保されなくなり、「形式」を盾に、政治が私物化されることも多い。
こんな中で国益や住民の利益を振りかざして議会や行政の変革をしようとするインセンティブは働きにくい。たいていは既存の秩序を乱す「厄介者」とみなされるのがオチだ。
地方自治や地方議員の仕事は、本来は住民の身近にあるものだが、日本では国政や国会議員よりも縁遠い感じがする。これは、日本では地方よりも国の政治や政治家の方が重要で「エラい」という感覚が根強く、メディアの報道も国を中心にしているという事情があるのではないか。
こんな状況では、二元代表制(日本の地方自治体では、国の「議院内閣制」と異なり、首長と議員のそれぞれが、住民から直接選挙される「二元代表制」を採用している〈憲法第93条〉、下図)の期待する行政と議会のチェック・アンド・バランスもあまり機能せず、「もたれ合い」か、さもなくば住民そっちのけの感情的対立すらもたらしている。
もちろん、全国にはさまざまな創意工夫をしている議会や奮闘している議員がいる。だが、住民から見て地方議会の中身や議員の普段の活動がよく分からないというのは、さまざまな調査でも明らかにされている。特に、都道府県議会や政令指定都市など、規模の大きな議会になればなるほど、その傾向は顕著なのではないか。
そもそも住民にとっては、都道府県議会と市区町村議会との違いが何なのかも分かりにくいし、極論すれば、それぞれに議会が必要なのかと感じる読者も少なくないだろう。