軍事から逃げていては仲介役にはなれない
また中・長期的に見れば、武器支援を含む軍事的援助のあり方についてもわれわれは再検討すべきだろう。満州事変・日中戦争の経験からも明らかなように、単なる道義的非難は確信的侵略国に対しては全く効果を持たない。経済制裁は確かに「平和的」制裁手段だが、その効果は一般に遅効で限定的な場合が多い。他方で、対日石油輸出全面禁止がそうであったように、時に武力行使並みの暴力性を持つこともある。つまり軍事的援助のみを殊更に危険視して排除する論理には疑義がある。
「軍事的援助と一線を画することが平和国家たる日本の使命であって、またそうすることによって、仲介国の役割を果たすことができる」という主張もある。しかし軍事的援助を拒否することは、どのように正当化しようとも結果的に侵略国を利する結果に陥る可能性が高い。それは「平和国家」の振る舞いだろうか。
また、たとえ軍事的援助に踏み込まないのだとしても、法的・制度的にその能力がないのと、能力はあるが戦略的理由からあえて行わないのとでは天と地ほどの開きがある(この点では集団的自衛権の議論も同様である)。前者はむしろ国際的責任と影響力の放棄であろう。責任と影響力のない国が仲介国を務めることができるなどと考えることは幻想である。
日露戦争において、米国はポーツマス講和会議を仲介斡旋した。米国が仲介国になれたのは米国に戦争の帰趨を左右するだけの能力があったからである。日中戦争において、日本は米国の経済制裁を受けながらも、米国が中国との和平仲介を引き受けることを期待していた。当然ながら、これは米国が「中立」だったからではない。米国に日中双方の死命を制する能力があったからである。
再び歴史に学ぶ
戦後長い間、日本は満州事変から太平洋戦争に至る侵略戦争の加害者の立場から歴史の教訓を抽出してきた。それは「二度と加害者にならないためにはどうすべきか」ということであった。しかし歴史の教訓は一つではない。世界は変わった。われわれ自身も変わらなくてはならない。今や「二度と加害者を作り出さないためにはどうすべきか」という新しい教訓への転換が求められているのである。
歴史的に見て、日本人は変わる時には変わる国民であった。われわれは今もその能力を失っていないと信じたい。
80年前の1941年、日本は太平洋戦争へと突入した。当時の軍部の意思決定、情報や兵站を軽視する姿勢、メディアが果たした役割を紐解くと、令和の日本と二重写しになる。国家の〝漂流〟が続く今だからこそ昭和史から学び、日本の明日を拓くときだ。
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