(1)小学校英語については、その導入に積極的な意見も多いが、逆に、反対意見も根強い。そこで、必修とはするが、教科とはしないという結論が言わば妥協の産物として生まれた。
(2)しかし、文科省としては、「妥協の産物」と言うことは到底できない。そこで、採用されたのが、松川禮子さん(岐阜大学名誉教授、現・岐阜県教育委員会教育長)と直山木綿子さん(現・教科調査官)の2人が編み出した、《学級担任=英語学習者のモデル》という考えである。おおよそのところをまとめると、① 学級担任は英語の教師として児童に英語を教えるのではなく、児童と同じ英語学習者として、そのモデルを提供する。つまり、間違いを恐れず、身に付けた知識を駆使して、英語で意見を言い、相手の意見を聞くという姿勢を児童に示す。② その授業過程で、児童がコミュニケーションを図ることの意義を感じとることができ、結果として、積極的にコミュニケーションをしたいという心を育てることになる(「コミュニケーション能力の素地」の育成)。つまり、(英語教育ではない)英語活動に独自の意義を見出し、それに根ざした教室文化を創生しようという考えである。
(2)について、筆者は以前から2つの問題点を指摘してきました。1つは、教室にいる児童も、担任も、英語学習者であるとするなら、だれが彼らに助言等のフィードバックを与えるのか。2つ目は、「コミュニケーション能力の素地」の育成は重要であるが、それは外国語ではなく、母語をとおして行うべきものである。
筆者は英語活動という形態も含め、小学校英語には一貫して反対の立場を貫いていますが、現実問題として、英語活動が導入された以上、単に、反対であると言っているだけではすまされません。そこで、ここ数年間は、英語活動に取り組む先生がたに声援を送りながら、同時に、英語活動の「ことば活動化」ということを主張してきました。つまり、英語活動を英語が使えるようになるための活動に矮小化することなく、子どもたちの母語(多くの場合、日本語)を含む、「ことば」という視点(日本語とか、英語とか、スワヒリ語、日本手話とか、といった個別言語の垣根を超えて、それらを鳥瞰する視点)を前面に打ち出し、具体的な例に触れながら、子どもたちにことばの性質や働きについて体験的に感じ取ってもらうという活動です。こうすれば、外国語に触れることで、母語との違いや言語に共通する基盤に気づくことができます。詳しくは、大津・窪薗(2008)を参照してください。
同時に、筆者は英語活動に真剣に取り組む小学校の先生がたの姿にできるだけ多く触れるように心がけてきました。その一環として、ここ数年、全国小学校英語活動実践研究大会に参加し、小学校の先生がたの真摯な取り組みをたくさん目にしてきました。
今回、英語活動が本格導入されて、日も浅い、この時点で、教科化ということが突然言われ出したことに違和感を通り越して憤りを感じる理由がここにあるのです。小学校の先生がたは偏に子どもたちのことを思い、英語活動という新たな文化を創生すべく、身を粉にして努力してきました。そうした努力を顧みることなく、教科化ということを軽々しく口に出して欲しくないというのが、筆者の偽らざる気持ちなのです。
*大津由紀雄・窪薗晴夫(2008)『ことばの力を育む』慶應義塾大学出版会
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