関東大震災での橋の被害と
復興で求められた性能
地震での被害といえば、津波とともに橋の崩落が想起される。阪神淡路大震災では、多くの橋が崩落し、テレビに映し出された横倒しになった高架橋は衝撃的だった。では、関東大震災では橋はどのような被害を受けたのだろうか。
震災時、東京市内の隅田川には、吾妻橋、厩橋、永代橋、両国橋、新大橋の5つの橋の鉄橋が架けられていたが、意外にも地震での落橋はなかった。この理由について太田圓三は、東京における震度が比較的小さかったことと、橋の工事が入念になされていたことを挙げている。
市内は、墨東地区を除く大半の地域で震度5程度で、また1891年に発生し、明治以後最大の直下型地震といわれた濃尾地震を踏まえて、一定水準の耐震対策がなされていたと推察される。しかし、新大橋以外の橋は床が木造だったため、周辺の火災が延焼し通行不能に陥った。
隅田川以外の河川や運河に架かる橋も同様で、揺れによる落橋はなかったものの、市内に架かる657橋中417橋が木橋で、鉄橋も大半が床は木造だったため、火炎で289橋が焼失した。このため、橋のたもとには避難できなかった市民の多くの屍が積み上がった。
こうした被害状況を踏まえ、橋の復興では不燃化が優先され、木橋に代わり鉄橋やコンクリート橋が架けられた。そして設計には、佐野利器が提唱した世界初の耐震設計である「震度法」が採用された。震度法は今でも用いられる耐震設計の基本だが、復興で規定した震度はかなり大きく、戦後架けられた橋、例えば日本橋の上を跨ぐ首都高と比べると、約1.7倍の地震動にも耐えられるように設計されている。
また当時、市内を行き交う車両の大半は人力車と大八車だったが、日本にも欧米のような自動車社会が到来すると考え、普通自動車に大型自動車、さらに市電(複線)の重さも見込んで設計された。このため戦車も通行でき、最新の基準で設計した現代の橋と比べて、約2倍の40㌧程度の重さにも耐えられる。
震災前は隅田川に架かるいずれの鉄橋も、三角形に加工した鉄材を組み合わせて作る「トラス橋」だった。しかし復興では、このような骨組み構造から鉄板を重ね合わせる「鈑構造」へと一新された。トラス橋は使用する鉄の量が少なくて済むため工事費は安価に抑えられる一方、鉄材が1カ所でも破断すると橋全体が崩落するという構造上の弱点がある。
大正初期に欧州が主戦場になった第一次世界大戦では、戦車などの重火器が登場したほか、戦闘機による空爆は戦術を一変させた。後に「橋の神様」と呼ばれる田中豊(詳細は33頁表)の土木論文『竣工せし新永代橋』(「土木建築工事画報」〈1927年3月号〉)は、前述の構造上の弱点を踏まえ、トラス構造が空爆に脆弱であることが記されている。これに対し、永代橋や清洲橋などの鈑構造の橋は、工事費はトラス橋の3倍以上と高額だったが、耐久性が高く空爆にも強かった。東京大空襲では、雨のように焼夷弾が降り注いだが、これらの橋は耐え抜き、避難する多くの市民の命を救ったのだ。