関東大震災の教訓
将来見据えたインフラ投資を
隅田川に架かる橋の形は、2つとして同じものがないといわれるほど多彩で、このため「橋の博物館」や「橋の展覧会」とも呼ばれる。このように多種多様な橋が架かる川は世界でも稀だ。川幅はほぼ同じで地形や地質に大差なければ、同じ形になる場合が多い。そのほうが設計や工事が楽で、工事期間も短縮でき、ひいては工事費も安価になるはずだからである。
しかし復興局はその選択をしなかった。多種多様な橋を架けた理由について、設計を主導した橋梁課長の田中豊は、土木雑誌『エンジニア』(30年3月号)の座談会で、次のように述べている。
「それが今の様になったのは、それはバラエティーが欲しい、同じ橋を2つも3つも架けるということは面白くない。(中略)もっとも最後に技術家にとってそういうチャンスは千載一遇です。少壮の技術家が安く骨惜しみしないで大に働く、大に技量を振るうということは技術の進歩から見ても非常に良いことだと言う理です」
橋にはさまざまな形があるため、土木の中でも技術の会得には特に時間を要した。そのため、西洋文明に接して日の浅い当時の日本は、橋の技術力で欧米から大きく遅れていた。もし全て同じ形で架けたら技術は一つしか得られないが、複数の形を手掛ければその数だけ会得できる。田中の発言から、復興を、将来を見据えた好機として捉え、橋の技術力を一気にアップさせようと目論んだことが読み解ける。しかも単にさまざまな形を配しただけではなく、世界最先端の構造にこだわった。
橋梁課長の田中は35歳、そして配下の職員の大半を大学出たての20代の青年たちが占めた。彼らは切磋琢磨することで、「復興」というわずか6~7年の短期間に、世界最先端の橋の技術を会得。日本は、まさしく千載一遇のチャンスをものにしたのである。
震災復興直後、日本を世界恐慌が襲った。政府は経済対策として全国で大規模な公共投資を実施した。その柱が基幹国道の整備だった。これにより多くの地方で初めて鉄やコンクリートの橋が架けられ、自動車の通行が可能になった。これを支えたのが、震災復興で育った若い技術者であり、新しい技術だった。これらを礎にして、わが国の橋の技術は、その後の戦争で中断はあったものの、やがて瀬戸大橋や明石海峡大橋など世界最高峰の技術へと結実し、日本の経済やわれわれの暮らしを支えたのである。
しかし2000年以降、わが国の橋の技術は、他の産業と同じように停滞した。「日本は成熟した国であり、インフラは既に足りている」との根拠のない妄想のもと、橋の建設数は激減した。さらに「公共事業は安ければ安いほどいい」との考えが横行し、隅田川のような多彩な橋の構造は影を潜め、新しく架けられる橋の95%以上が高速道路のような最もシンプルな形式の「桁橋」になってしまった。
この間欧州では、優れたデザイン力のもとコンピューターを駆使し、まるで現代彫刻と見紛うばかりの斬新なデザイン・構造の橋が多数建設されている。しかし、現在の日本にはこのような橋をデザインするセンスも、設計する知識も、製造するノウハウもない。長い橋を架ける技術でも中国や韓国から後れをとり、早晩、瀬戸大橋の補修も、両国企業の協力なしにはできなくなるのではないか、とさえ思える。
当時の復興では、予算の大半は復興債という借金で、しかも購入者の大半が海外という中、短絡的かつ応急的なものではなく、50年、100年先の未来を見据えた対策がなされた。まさしく「未来への投資」であった。
復興を機に東京は、江戸時代さながらの街から近代都市へと変貌した。これにより、地震や戦争にも強い安全な、そして自動車や鉄道をはじめとする近代インフラに適応できる都市がつくられた。100年後の今も、経済や文化などさまざまな分野で、ニューヨークやロンドン、パリなど世界の名だたる都市と競えるほどの東京があるのは、この復興のおかげなのである。
さて、復興をはじめとする公共投資には、利便性向上や経済対策などさまざまな効用があるが、田中豊が復興の橋の建設で論じたように、最大の効用は新しい技術・産業を起こし、それを支える技術者を育成することにあると思う。これは営利企業でない公的部門にしかできない専管事業である。
しかしここ20年来、公共投資は橋を例にとるまでもなく大幅に削減されてきた。コストカットが叫ばれ、事業化にあたっては費用対効果の検証が必須となり、なにより「安さ」が優先されるようになった。復興で求めた新技術の導入や開発、人材育成の理念は消え失せ、民間の新技術開発への投資も萎み、技術力は急速に低下していった。
そんな日本を尻目に、新興諸国はもちろんのこと欧米も、公共投資を増加させ、新しいインフラとそれを支える技術力により、国家としての競争力を大幅にアップさせている。
インフラは社会の土台である。このままでは、わが国の国際競争力は低下する一方である。関東大震災から100年を契機に、われわれは今一度、本来の公共投資の意義と重要性を改めて認識すべきである。