分断を利用し成功した
「国民政党」ナチ党
しばしば指摘されるように、ヒトラーは選挙によって首相の座についたわけではない。とはいえ、28年の総選挙では得票率2.6%に過ぎなかったナチ党が、わずか数年で30%台を獲得するようになったことも、忘れるべきではない。こうした急速なナチ党への支持拡大なくして、33年1月にヒトラーが首相に任命されることもなかったであろう。
古い研究ではナチ党は中間層の運動と捉えられてきたが、J・ファルターらの統計を用いた新しい研究により、実際にはナチ党は、党員においても支持者においても、従来考えられてきたよりもはるかに多様な人々から構成されていたことが判明している。たとえば、ナチ党に投票した者のうち3分の1は労働者層であった。それゆえファルターはナチ党を「中間層の傾向が強い国民政党」と規定している。ここで言う「国民政党」とは、広範な社会層に満遍なく支持される大政党を意味する。
加えて注意すべきは、ナチ党に投票した人々の多数が、「経済的敗者」ではなかったことだ。たとえば、ナチ党に投票した者の中で、失業者が占める割合は全体の平均よりも低い。それに対し、それまで棄権していた人々が28年から33年のあいだに投票所に足を運び、ナチ党の成功に貢献している。
20年代の深刻な農業危機、29年に始まる世界恐慌など、危機が次々と訪れる中で、ヴァイマル共和国の既成政党は安定した連立政権を樹立できずに無力をさらけ出していると有権者には判断された。既存の政党が、各々の支持陣営の個別利益を優先したことも、ナチ党には有利に働いた。多くの人は、抗議の意味でナチ党に投票したのだ。
ナチ党の戦略にも巧みなところがあった。政府の貿易政策に不満を抱いていた農村地域に目を付け、30年以降、「フォルク(人民、民族)」を強調して農民層に訴えかけたことを挙げておこう。この農村進出戦略は功を奏した。分断された社会において、ナチ党の戦略は効果的だった。こうしてナチ党は自らを「国民政党」としてアピールすることに成功したのである。
とはいえ、忘れるべきでないのは、保守派の助力なくしてヒトラーが権力を握ることはなかった点である。ヒトラー政権は、最初は保守派との連立政権としてスタートした。ヴァイマル共和国の保守派は、自己の利益や権力、名声を守るために、民主主義を放棄してナチと手を組むことを選んだのであり、その帰結は周知のとおり破滅的なものだった。
ロシア・ウクライナ戦争のさなか、こうしたヴァイマル共和国の歴史を想起することは重要である。メディアや世論が分断され、その中で各陣営が「エコーチェンバー」によって、自分たちにしか通じない特定の価値観や物語を増幅させていく状況は、まさに現在と不気味に類似している。
ヴァイマル共和国が、その発足当初から戦争をめぐる陰謀論に苦しめられていたことも最後に指摘しておきたい。
当時、第一次世界大戦時のドイツ軍は戦場では勝っていたのに、国内の社会主義者やユダヤ人たちに背後から刺されたために敗北したという荒唐無稽な陰謀論が広まっていた。そして、その陰謀論をうまく利用したのもヒトラーであった。ヴァイマル共和国の歴史は、決して遠い過去ではないのだ。