厚労省から指針が示されたことで「地域包括支援センターにつないだだけ」というケースが増えるのではないか。安井氏は、そう心配する。地域包括支援センターも万能ではない。高齢者介護と子ども・若者の支援では、視点も常識も変わってくる。子どもが自分の意見を言うためには、周囲が年齢やそれぞれの特性を理解し、分かりやすい例を出しながら選択を促すといった配慮が必要となる。学校や友人関係など社会生活面での調査も欠かせない。これらを踏まえずに、連携とは名ばかりの丸投げのケースが増えれば当事者不在の押しつけにつながる。
行政が関わっているのに何か問題が起きれば責められる──。その典型例が児童虐待死事件だろう。感情的なバッシングが続けば、現場は責任を回避するために、「見ざる・聞かざる・言わざる」の事なかれ主義を選択するようになる。
「ヤングケアラーは、視点を変えれば親が十分に子育てをできていないネグレクト(養育放棄)に当たることもある。ただ、親と離れて暮らしたいという子どもばかりではない。親元から引き離すことによる〝解決〟が馴染まないケースも少なくない」(安井氏)
日本の福祉政策では、問題が生じるたびに新たな制度がつくられ、十分な整合性が取られないまま建て増しを続けてきた。かつて筆者は埼玉県で生活保護制度を担当していたが、介護保険制度や障害者自立支援制度が多くの人を救う一方で、ホームレスや精神疾患などの困難のある人が制度から排除される現実を見てきた。こうした福祉政策の縦割りの弊害が指摘されて久しい。ヤングケアラー対策のための新しい指針を示せば、今度は指針自体が免罪符となるジレンマを抱える。「制度主義」の限界である。
早期発見・早期対処の強調が
親子をより追い詰める
さらに、安井氏は、「浅い解像度で、『ヤングケアラーをなくす』という政策目標を立てることは、親子を追い詰めかねない」とその危険性を指摘する。
「日本では、障害や疾患に対する偏見が根強く残っている。ヤングケアラーの家庭の全てが、『カッコいい!』『頑張り屋さん』と評価される実態があるわけではない。ヤングケアラーの研修を受けた地域住民が『あなたの子どもはヤングケアラーだ』と言い、家事をしない母親を責める。母親が傷つくことで、子どもに二次被害が生じる。早期発見・早期対処ばかりが強調されると、親子がより追い詰められることになりかねない」
続けて、次のように話す。
「社会問題が見つかると、それらを『ゼロにしよう』という目標が打ち出される。しかし、虐待やいじめ、不登校などの問題と同じく、ヤングケアラーの問題もすぐに解決ができる簡単なケースばかりではない。無理な目標設定は『解決していないのに解決したことにする』という運用を生み出す。必要なのは、不確実な未来に耐えながら子どもたちと関わり続けていくことだ」
困難を抱える若者に寄り添う支援者は、丁寧に長い時間をかけて関わり、共に苦しみながらも一人ひとりの子どもたちと信頼関係をつくっていく。短期間で問題解決を求める「成果主義」では、その価値を図ることはできない。
「契約主義」「制度主義」「成果主義」は、福祉政策を対象者の選別をしない普遍的なものとする過程で導入されてきた。福祉政策だけでなく、広く社会に浸透した価値観と言えるだろう。加えて、誤解を恐れずに言えば「子どもを育てるのは、第一義的には親の責任」という価値観が、問題をより一層見えにくいものにする。
社会の中で、子どもを育てる。困難を抱える子どもたちが、生きやすい社会にする──。
こうした誰もが否定できない社会をつくるのは、実は容易なことではない。私たちの常識が、子どもを窒息させている現実を鋭く告発するという意味で、ヤングケアラーは、目をそらしたい解決困難な課題を私たちに突きつける闘争的な概念である。Wedge11月号(10月20日発売)では、支援の方向性を提示したい。