この記事を読むのは、おそらく10年以上前に大学を出た人たちであろう。あるいは、半世紀前に大学生だった人もいるかもしれない。大学時代は青春の思い出だ。ペギー葉山の歌のように、『素晴らしいあの頃 学生時代』だった。そして、それなりに勉強をし、卒業し、社会にもまれ、あなたは今ここにいる。
『素晴らしかったあの頃』から時を経た今、大学は社会の批判にさらされている。いつまでたっても変わらない大学。変われない組織。反対ばかりする教授たち。法人化したのに子離れ親離れのできない文部科学省(文科省)と国立大学。やる気のない学生たち。何とかしなくては、と思われても仕方がない。
能率を重視するビジネスマンは、企業経営と比べると、大学の経営など見ていられないという。現実的な政治家は、短期的な視点で性急に改革を迫ってくる。教育の世界に生きているわれわれは、確かにその通りだと思うところが少なくないのだが、本心では、企業家の効率主義や政治家の現実主義よりはもっと深いところに、大学と教育の本質があると信じている。
外圧で実現した国立大学法人化
大学改革が困難なのは、今に始まった話でもないし、日本だけの問題ではない。カリフォルニア大学の名学長といわれたクラーク・カー(Clark Kerr、1911~2003)は、大学改革が困難なことを嘆いて、次のように言った。「大学を改革するのは、墓場の移転と同じだ。内発的な力に頼ることはできない」。
確かに、国立大学の法人化も、小泉純一郎内閣の「聖域なき構造改革」の外圧の中で実現したものであった。そして今、安倍晋三内閣は、「教育再生実行会議」を立ち上げ、教育の改革を迫っている。不思議なことに、教育再生実行会議の提言には一言も法人化について触れていない。先ず、法人化から話を始めよう。
04年4月、わが国の89の国立大学は一斉に法人化した。法人化により、それまでは文科省の一地方組織に過ぎなかった国立大学は、権利義務が法律によって保証されている「法人格」を獲得したのである。国立大学は、文科省から独立した1つの存在として、自らの意志と戦略に従い、人と予算を動かせるようになった(はずである)。