その後、ド・ゴール政権の路線を継承したポンピドゥー政権の下、メスメル首相は73年5月の閣議で、72~75年に建設される原発の計画発電量を、当初の8000メガワット(MW)から1万3000MWに増強すると述べました。それから数カ月後の73年10月に発生した第1次石油危機を受け、フランスはエネルギー自立の保障を目標として、原子力化計画を更に加速させております。
74年10月には、メスメル首相が85年までに原子炉を80基前後、2000年までに計170基を建設し、総発電に占める原発比率を100%まで引き上げる計画を発表しました。こうしてフランスでの原発建設が本格化し、政府は国民に安価なエネルギー供給を約束することで、原発事業への大規模投資に理解を求めました。
ロシア産化石燃料の調達
第1次石油危機は、エネルギー調達先の多角化を促す契機ともなりました。当時、フランスは主に、サウジアラビアやイラク、イランといった中東産油国から原油を調達していました。だが石油危機に続き、イラン・イラク戦争(80~88年)や湾岸戦争(91年)、イラク戦争(2003年)などの度重なる中東紛争を受け、中東地域からのエネルギー供給途絶に対する危機感から、他地域からの輸入を模索しました。
そして、フランスはホルムズ海峡を迂回する形で調達先を多角化するため、カザフスタンやロシアからの原油輸入量を段階的に増加させました。その結果、原油輸入における中東依存度は、1973年の71%から2019年には21%まで低下しました。
天然ガスも、フランスはロシア産の輸入を推し進めます。14年、仏石油企業「トタル(現トタルエナジーズ)」がロシア北部ヤマル半島での液化天然ガス(LNG)事業に参画し、ロシア産LNGの確保に努めました。ガス輸入量に占めるロシア産の割合は11年の約15%から19年には約23%まで上昇し、ロシアはフランスにとって重要なガス供給国となりました。
22年のエネルギー危機
しかし、フランスのエネルギー政策は22年に試練を迎えました。発電比率の7割を占める原子力発電は、熱波による河川の水温上昇で冷却水を十分に確保できず、定期点検や腐敗による運転停止も重なり、全面的に稼働ができなくなりました。原子炉全56基のうち最大21基が一時停止したことで、22年の原発の発電電力量は282テラワット時(TWh)を記録し、過去10年平均の395TWhを大きく下回りました。
原発不調は、ヨーロッパ有数の電力輸出国としてのフランスの地位を揺さぶります。フランスは送電線網の接続に有利な地理的位置にあり、周辺諸国(ドイツ、ベルギー、スペイン、イタリア、英国、スイス)と約50の電力の相互接続点があります。しかし、国内発電量の低迷に伴い、フランスから周辺諸国(特にドイツ)への電力輸出量が著しく低下しました(図2)。