第二次世界大戦開戦時において、通信傍受・暗号解読に最も秀でていたのは英国、次いで米国だろう。ただし大戦を通じてその立場は入れ替わることになる。同分野で意外と日本は健闘しており、その次ぐらいに位置するかもしれない。
それに対して日本の同盟国であったドイツの通信傍受活動は低調であった。ドイツの暗号解読組織は英国に比べると、質量面で劣っていたと考えられる。問題は組織が小規模で乱立していたことで、これらは最後まで統合されなかった。最も規模の大きい海軍情報部B局が1000人程度、国防軍最高司令部暗号部が800人、外務省暗号解読局が300人という規模であった。
人員は不明だが、さらに小規模で国内の電話盗聴を行う航空省のゲーリング調査局があったが、それぞれの連携は取れておらず、優秀な人材も集まらなかったため、暗号戦では連合軍に後れを取り続けた(英国の政府暗号学校≪GC&CS≫は戦争末期に約1万人、米軍の通信情報部は約2万人の規模だった)。
戦争中から英米の指導者や軍人は、枢軸国に勝利するための鍵は暗号解読にあることをよく理解しており、お互いのノウハウを共有すればより効率的に戦えると考えていたようである。最初の協力の契機は1941年2月であった。この時、英国の政府暗号学校(GC&CS)は、ドイツのエニグマ暗号を解読することができたが、日本の外交暗号(パープル)を解読することができず、英国は極東の拠点であるシンガポールが日本軍に攻撃されることを常に警戒していた。
それに対して米国陸軍通信情報部(SIS)は、エニグマ暗号を解くことはできなかったが、日本のパープル暗号を解くことができた。ここに米英の協力の余地が生まれ、SISの暗号解読官たちがGC&CSの本部、ブレッチリー・パークを訪問し、パープル暗号の解読法を英側に伝授した。
ただ狡猾な英側は、SISにエニグマ暗号の解読については教えなかったようである。この時期の英国の暗号解読記録を注意深く追っていくと、2月15日の時点から、急にそれまで解読できていなかったロンドン、モスクワ、ベルリンの各日本大使館と東京のやりとりが記録され始めており、GC&CSはこの時期にパープル暗号の解読に成功したようである。
開始した米英の協力
戦後はソ連の傍受へ
その後、真珠湾攻撃によって米国が第二次世界大戦に参戦すると、やはりドイツのエニグマ暗号を解く必要性が生じる。米側が特に問題視したのは、米国と英国を結ぶ大西洋のシーレーンが、ドイツのUボートに脅かされているという状況であった。そこで米海軍通信情報部(OP−20G)長カール・ホールデン大佐は、GC&CSに対してドイツ海軍のエニグマ暗号の解読について協力を要請することになる。その結果、42年10月2日に米英の間で「ホールデン協定」が結ばれた。
これは史上初めてのインテリジェンス協定であり、米海軍が日本海軍の暗号を解読し、GC&CSがドイツ海軍の暗号を解読して、それぞれの解読情報を共有するというものであった。ただしここでも英側の狡猾さが表れ、GC&CSは米海軍のみにエニグマ暗号の解読情報を提供し、米陸軍にはそれを秘匿していたのである。