昭和から平成にかけて国際情勢も大きく揺れた。86年にフィリピンでマルコス政権が倒れ、コラソン・アキノが大統領に就任したときのことだ。アキノ大統領の外遊中に、外務大臣がクーデターを起こすという噂が流れてきた。その際、安藤は報道陣の規制テープをまたいで外務大臣に直撃インタビューを試み、「あなたを首謀者にして、クーデターを起こすという噂があるが本当か?」と質問をぶつけた。
「すると、彼は『No talk, no mistake』と言ったんです。つまり外務大臣は否定せず、暗に肯定したわけです。周りにいたロイターやAP通信の記者たちから『あなたのやったことはルール違反だが、彼はなんて言っていたの?』と聞かれ、その談話が世界に打電されました」
また、アパルトヘイトが廃止された南アフリカで94年に初めて全人種が参加する総選挙が行われたときは、なぜ90年に獄中のネルソン・マンデラを突如釈放するに至ったのかを前大統領のデクラーク本人にどうしても聞きたかった。
「私は現地でデクラーク氏を付け回し、トイレ前で待ち伏せして、SPに追い払われながらも、インタビューに成功したこともあります。現場に行くと、私はいつもアンコントローラブルになっちゃうんです」
その好奇心の源泉について、安藤は「ある種、私は野次馬根性の塊みたいなもの」と話す。
「ただ、私はニュースを伝えるとき、野次馬ではあるけれど、単なる第三者ではない『責任を持った野次馬』であろうとしてきました。『ねえ、この話知ってる?』という気持ちを、責任を持ってストレートにお伝えしたい。そんなふうに思ってきたんですね」
「のりしろ」としての知見や
知識が圧倒的に欠如していた
40年近くほぼ毎日、生放送に出演してきた安藤だが、現場に行けば行くほど深まる葛藤があった。
「私は見たものを言葉にする『現場実況』はすごく得意なんです。例えば、『いまベルリンの壁が壊されようとしています』というように、目の前で起きている出来事を言葉にするスキルには自信がありました。でも一方、その出来事の前後にある歴史的な積み重ねやこの先に見える未来をつなぐのりしろとしての知見や知識が圧倒的に欠如していると思ったんです。もっと勉強しなければならないとコンプレックスのような思いがありました」
その「のりしろ」を埋めるために、安藤は2005年から上智大学大学院に通い始めた。分単位で考えるテレビ報道の現場の合間を縫って、静寂な図書館で文献と向き合う。そうして14年かけて、平成が終わる19年に博士号を取得した。
当初は国際関係論を研究するつもりだったが、キャスターとして経験を積む中で、自民党の女性議員の少なさに疑問を持った。
「衆議院議員の90%が男性であるように、限られた属性の人だけが政治に関わっているという歪さは『異形の民主主義』だと思いました。さまざまな属性の人が政治に参加できるのが、本来の民主主義の姿でしょう」