2024年10月25日(金)

Wedge REPORT

2024年7月6日

(Alvaro Moreno Perez/gettyimages)

 ピックルボール、というスポーツがある。米国では2023年に全米ピックルボール協会に所属する競技人口が7万人を超え、レクリエーションレベルのプレイヤーはその数倍、と言われる。実は考案されたのは1965年のことで、最初は卓球のラケットにプラスチックの穴あきボールを使ってプレイされていたが、徐々に改良され現在の専用パドルが使用されるようになった。

 競技内容はまさに卓球とテニスの中間で、サーブは決められた場所に落とす必要がある、ボレーをしても良い、得点はサーブ権のある場合にだけ加算、などのルールがある。またピックルボールの醍醐味とも言えるのが、「キッチン」と呼ばれるネットから2メートル強のエリアだ。競技者はこのエリア内ではボールをダイレクトに打つ、つまりボレーをしてはならない。プロの試合を観戦すると競技者はキッチン内を低いボールで打ち合い、少しでもボールが浮けばスマッシュ、という戦法が一般的だ。

 ピックルボールが流行する理由は、まず米国のコート周囲の広いテニスコートなら、テニス一面分で四面のコートが取れ、大勢が同時にプレイできること。テクニックなどもテニスと比較すると簡単で、初心者でも30分から1時間程度の講習で試合に参加できる。そして動く範囲が狭いため、テニスのように走り回る必要がなく、シニアでも気軽に楽しめる、などだ。実際米国ではテニスをリタイアした後のシニアプレイヤーが多く、競技人口の平均年齢が60歳を超える、とも言われる。

 数年前からこのブームが日本にも飛び火しはじめ、現在では全国で1万人弱程度の人々がピックルボールを楽しんでいる、という。普及に向けた活動も盛んだ。

 京都と大阪の境にあたる京田辺市を中心に活動する「京田辺ピックルボールクラブ」は2022年に創設され、現在総勢で70人ほどが週に数回のプレイを楽しんでいる。主催者は東拓明さんで、元々テニスコーチだ。

クラブ運営の中心である東拓明さんとブラック夫妻

 ピックルボールと出会った経緯について、東さんは「ある日僕が勤めているテニスコートに、ブライアン・ホワイトという米国人が訪ねてきて、ピックルボールを知っているか、ここで出来ないか、と聞いてきた」と語る。ホワイトさんはシリコンバレー地区から京都に移住、米国で楽しんでいたピックルボールが出来る場所を探していた。そして東さんが勤めるLYNKSアカデミーは数少ないハードコートのテニス場だった。

ピックルボールのゲーム風景

 日本ではテニスコートの大半はオムニ(人工芝に砂を撒いたもの)で、ピックルボールには適さない。そのため日本ではほとんどのクラブが体育館で練習などを行っている。東さんにとってホワイトさんとの出会いは、ピックルボールという新しいスポーツに触れることであり、同時にビジネスチャンスでもあった。

「当時は夕方から夜にジュニア向けのレッスンを行っていて、平日午前中や午後にコートが空いていることが多かった。ピックルボールを受け入れることで、コートの貸し出し時間が長くなるのでは、というメリットを感じた」という。

 その後ピックルボールそのものの魅力にハマり、現在日本では5人しかいない国際ピックルボール認定コーチの資格を今年2月に取得。また昨年から今年にかけ、京田辺市のイベントとしてピックルボール体験会を3回開催している。日本には日本ピックルボール協会も存在し、全国大会や地域での体験会を行っているが、それと比較しても京田辺のイベントやレッスン、練習会などは充実している、といえる。

 ホワイトさんは日本の大会でも優勝するなど、日本のピックルボール界では名の知れた存在だが、今年春から長期で米国に帰国中のため、友人であるオーストラリア人のルーカス・ブラックさん悠子さん夫妻がしばらくクラブ運営を行っていたが、人数も増え組織として確立する必要が出てきたため、東さんが今後の企画運営などを行っていく体制が作られた。

 京田辺市は大学が複数ある、京阪奈学園都市に近い、などの特徴から外国人居住者が多く、ピックルボール経験者が多いこともクラブが成長する原動力になっている。練習会では英語と日本語が飛び交い、20代から60代まで様々なバックグラウンドの人々が集まり、この新しいスポーツを楽しんでいる。


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