60代の自営業の男性は、離婚後セルフネグレクトに陥っていたが、プライドもあって、その窮状を誰にも伝えられなかった。しかし「このまま死んでしまうのでは」と、命の危険を感じたことで、変化が訪れた。初めて仕事仲間に助けを求めたのだ。
それをきっかけにして、何とかセルフネグレクトから脱することができた。その後は、自分と同じ境遇の離婚や死別した男性たちに声を掛けた。そして仕事仲間を中心にLINEグループを作り、さりげなくお互いの安否確認を行うことで絆を深めている。今ではLINEグループの投稿を見ることが、生活の張り合いになっているという。
現代社会では誰もが少なからず、ひりつくような生きづらさと隣り合わせである。生きづらさは、えてして個人の問題とされがちだが、その背景には福祉や医療、貧困、労働問題などが横たわっているケースも多い。マクロの視点で国ぐるみで取り組むべき課題である半面、ミクロレベルでは私たち一人ひとりが向き合うべきことでもある。
自己責任論からの
解放が第一歩に
社会問題を取材していると、日本は過剰なほどに自己責任論が根強く、それを過剰に内面化していると感じる。「迷惑をかけたくない」という言葉は、危機的な状況に陥っている人ほど聞かれる言葉だ。福祉関係者は「早く相談してもらえれば」としきりと嘆くが、なかなかそうできない心理も私は理解できる。
自身もそうであったが、人に助けられた経験のない人ほど、こうした思考に陥りやすいからだ。自分を「迷惑な存在」として考えるのではなく、生きづらさを感じる中でも「生存」できていることを肯定する。こうして自分を抑圧するものから解放されることが、助けを求めるためには必要なのではないだろうか。
私のSNSに40代の女性からSOSのDMが届いたことがある。彼女のアパートを訪ねると、天井までごみが積み上がり、室内は灼熱地獄だった。しかし、私の紹介で福祉関係者とつながり、命は助かった。
彼女が勇気を振り絞って助けを求めてくれたことが嬉しかった。私は彼女だったかもしれないし、彼女は私だったかもしれないと思えたからだ。
私たちの人間社会は、ある意味で〝迷惑の掛け合い〟でなり立っている。だから、生きづらさを自分のせいにして追い込まず、まず周囲に助けを求めることを臆さないでほしい。そして困っている人がいたら手を差し伸べてほしい。その持ちつ持たれつの関係性こそが重要である。
日常生活に追われていると忘れがちだが、人は寄りかかったりかかられたりして、網の目のように有機的につながっている。他者への想像力を失わないことが、経済優先、効率優先になりがちなこの社会と向き合う一歩ではないか。長年、生きづらさを巡る問題を取材してきた身として、そう感じずにはいられない。