――そこから、今度は“生物物理”という新しい学問領域に入っていかれたわけですね。
和田氏: この留学が一つの契機となりました。留学を終えて帰国しましたが、当時私がハーバードでしていたような研究をしているところは日本にはありませんでした。幸い、お茶の水女子大学で講師の職を得ることが出来、5年間を自由な研究雰囲気の中で過ごしました。
その後、東大の小谷正雄先生から、物理学教室で生物物理を始めるから来ないかと声をかけていただき、東大に移りました。小谷先生は、生物物理のいわば全日本のリーダー的な存在で、私はお茶大時代にそのお手伝いをして生物物理学会を立ち上げたというご縁があったうえ、当時の私の研究を評価していただいたのです。
東大では、私の生物物理学研究室は、物理学教室の中で学生数が最も多い研究室の一つになりました。そこで若い優秀な連中に刺激されながら、生物学と物理学の両方に跨って研究していくうちに、前者は生物の多様性を追う学問、後者は多様性の中に一般法則を見つけてゆく学問であると悟りました。
そこで一番基本である「生物の設計図」、つまり、ゲノムを研究することになったのです。
日本の特技であるロボット技術とコンピューター技術を駆使して、DNAの高速自動解読を構想し、やがて国家プロジェクトのリーダーに任命され、世界初の高速自動ゲノム解読機開発にも取り組みました。
先ほど話したように、とにかく新しい世界に入っていくのが私の信条ですから、東大時代にはこのほかにも、例えば日本がイニシアティブをとった最初の国際的なプロジェクトである“ヒューマン・フロンティア・サイエンス・プログラム(HFSP)”の立ち上げにも力を注ぎました。
その後、理化学研究所ゲノム科学総合研究センター所長などを務めましたが、そろそろ次の世代を育てていきたい。世界に雄飛して“科学技術日本”の将来を担う優秀な若者を育てたい、そう思っていたところに、縁あって横浜サイエンスフロンティア高校(YSFH)の創立に関わることになり、今は同校の7常任スーパーアドバイザーという形で、次世代科学者・技術者、それからサイエンスを本当に理解している文系の人たちの育成に携わっています。
――和田先生の研究者人生において、先ほどの『子供の天文学』以降で、何か大きな影響を受けた本はありましたか?
和田氏:昔読んで、何度も何度も繰り返し読んでいる本が何冊かあります。今でもよく読むのが、例えばウインストン・S.チャーチルの『第二次世界大戦(上・下)』(河出書房新社)。