2025年12月5日(金)

スポーツ名著から読む現代史

2025年8月25日

「戦争協力」をテコに

 職業野球のスタートと時期が重なるように、日本は戦争の時代へと突入する。37(昭和12)年、春季リーグが大詰めを迎えていた7月7日、中国・北京郊外の盧溝橋付近で一発の銃声が鳴り響き、日中両軍の戦闘へと発展していった。

 内務官僚から読売新聞の社長に転じた正力松太郎をはじめ、商工大臣に民間から起用された阪急電鉄の小林一三、近衛文麿内閣の農林大臣となったセネターズの有馬頼寧と、発足した職業野球3球団の経営者が実は政治の中枢に身を置いていた。

 戦争の激化は興行としての職業野球にマイナスに作用するかと思われたが、正力はじめ連盟首脳は「戦争への協力」を前面に押し立て、戦火拡大をプラスに利用する。「戦争への協力」は、ファン拡大の道具としても使われた。

 リーグ発足2年目に行われた東西対抗戦は「国防費献納東西対抗職業野球戦」として開催された。「入場料を戦争資金に充当する」と宣伝し、8チームが洲崎球場に結集し、午前10時から4試合を行い、球場は満員となった。

 大会の収益と読売新聞が実施した「国民献金」から陸、海軍にそれぞれ戦闘用装甲車などを購入するため10万円ずつが贈られた。「戦争に協力する職業野球」のイメージを国民に植え付けることに成功した。

戦時激化も球場は大入り

 春・秋の2シーズン制で36(昭和11)年に始まった日本職業野球は39(昭和14)年、連盟の正式名称から「職業」の2文字を外し、「日本野球連盟」として再スタートした。新たに南海軍を加えた9チームとなり、リーグ戦の形式も1シーズン制に改めた。

 41(昭和16)年12月の日本時間8日、日本軍はハワイの真珠湾を奇襲攻撃し、太平洋戦争に突入した。戦争が激化しても、球場への客足は衰える気配がなかった。巨人軍はその年の決算で球団発足以来初の黒字を計上する。

 公式戦の入場者数も、対米英開戦後、最初の42(昭和17)年も前年と変わらず80万人台を突破する勢いで推移した。連合艦隊司令長官の山本五十六の戦死が公表され、街が喪に服した43(昭和18)年5月21日ですら約6000人が球場に足を運んだ。

 この状況を山際はこう分析する。<ひとつの会場に数千人規模を集める興行は、政府や軍関係の催しを除けば異例といえる。娯楽もままならない窮屈な暮らしに対する国民の反動ともいえよう>(149頁)


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