7球団で旗揚げ
本書は36(昭和11)年に発足した日本職業野球連盟の第1回大会から筆を起こす。連盟に加盟したのは東京巨人軍や阪神タイガースなど7球団。甲子園球場で始まった第1回大会は、巨人軍が米国遠征中だったため残る6球団が参加し、7日間15試合が行われた。
当時、野球人気の中心は東京六大学や中等学校など学生野球だった。スター選手は社会人野球に進み、都市対抗野球大会を盛り上げていた。「職業野球」は1段も2段も格下と見られていたが、物珍しさもあって、開幕日の3試合には5260人の有料入場者数を数えた。
しかし、その後はしりすぼみ。7日間の合計有料入場者は1万9416人で、1日平均約2700人。東京六大学野球の1日分にも満たない数字だった。
入場料の合計収入は1万970円。経費を差し引くと、7908円25銭で、6球団で分配すると、各チームとも選手10人ほどの月給しか賄えない金額だった。
不人気にはさまざまな原因があったようだ。巨人軍を創設した読売新聞のライバルである東京朝日新聞は、早稲田大学野球部の監督だった飛田穂洲の「興行野球と学生野球」と題する寄稿を掲載。飛田はその中で、職業野球について、大学出身の野球浪人や二流選手、中等学校生のかき集めの集団とこき下ろし、「気の利いた実業団野球にも及ばないほどの微力」と痛烈に批判していた。
スタートは苦戦した職業野球だったが、わずかながらも有料の観客を集めたことが自信になったようだ。しかも、34(昭和9)年にベーブ・ルースら米大リーグが来日して日本各地で試合をした際、大リーグ相手に1失点の快投を演じ、巨人に入団した沢村栄治が米国遠征中で不参加だったことから、伸びしろはあった。
熱烈な支援者も
世間から職業野球が白眼視される中、有力な応援者も現れた。小説、戯曲、俳句と幅広い表現活動をしていた久米正雄は、巨人軍が旗揚げした際に、いち早く賛同を表明していた。
久米は「鎌倉老童軍」というチームの総監督をして、選手が足りなくなると川口松太郎や菊池寛ら多少の心得がある文人を選手として呼び寄せていた。チームとしても老童軍は34(昭和9)年、第8回都市対抗野球大会の東海地区予選を勝ち抜いて本大会にも出場した実績がある。
久米は1910(明治43)年、妻と渡米した際、フィラデルフィア・アスレチックスとシカゴ・カブスが対戦した大リーグ第7回ワールドシリーズを現地で観戦したほどの野球通である。
<本場での熱狂ぶりを肌で感じてきただけに、日本で誕生した職業野球への期待は大きい。久米は野球を生業にすることについて、「腕一本で、働けるだけ働いてみるのも、男子の本懐ではないか」とし、「沢村のように、喜んで職業野球団入りする方が、むしろ人生的であると思う」と称賛した>(24頁)
次第に職業野球ファンは増えていった。そうなると、学生野球のメッカである甲子園や神宮球場のような専用の球場を求める声が高まり、関西では阪急電鉄の小林一三の尽力で西宮球場ができ、東京は西武線沿線の上井草と、江東区の洲崎球場が出来上がった。さらに37(昭和12)年9月には東京・小石川の砲兵工廠跡地に後楽園球場が完成し、多くの野球ファンを迎え入れる体制が整った。
