2025年12月5日(金)

スポーツ名著から読む現代史

2025年8月25日

「戦争協力」の裏側で

 国策で遂行する戦争に誰も抵抗できない。よく知られているのが「用語」の置き換えだった。「敵性スポーツ」とみなされた野球から英語を追放するよう命令が出た。

 ストライクは「正球」、ボールは「悪球」セーフは「安全」アウトは「無為」。審判のストライクコールは「よし1本」「よし2本」と改められた。

 球団名のジャイアンツもタイガースもセネターズもダメ。「巨人軍」「阪神軍」「翼軍」「黒鷲軍」……。ライオンはしばらく名称なしの時代が続き、「朝日軍」となった。選手名にまで及び、巨人軍のスタルヒンは須田博と漢字名にされた。

 監督は「教士」、選手は「戦士」に改められた。「選ばれた者」から「戦う者」へ。戦いの場も野球場から戦場へと変わる者が次々と出てきた。36(昭和11)年の盧溝橋事件からわずか3週間後、名古屋軍から召集された後藤正内野手が最初の戦死者として報道された。

 連盟としては「戦争遂行」に協力する形をとりながら、裏側では選手を兵隊にとられないよう、さまざまな工作も行われていた。名古屋軍の赤嶺昌志理事は日本大学と提携し、所属選手を日大に学生として送り込んだ。大学生は兵役を回避できるためだ。

 日大側も学生数が増えれば経営的にメリットがある。日大は日中戦争が始まった38(昭和13)年から41(昭和16)年にかけて学生数が急増している。名古屋軍に限らず、兵役を逃れるための入学者が殺到したためと思われる。関西では阪神軍が関西大学を受け皿に、選手を送り込んでいた。

「戦争への怒り」の意思表示

 ある時は「戦争協力」をうたい、軍に協力する姿勢を示し、その一方で選手の徴兵を避けるため大学と結託するなど様々な「生き残り策」を駆使してきた職業野球だったが、米軍機の空襲の激化と徴兵による選手の不足、生活物資にまで及ぶ資材の枯渇で、いよいよ存続が難しくなった。選手を大学に送り込む徴兵逃れの裏技も、43(昭和18)年10月の学徒動員令で封じられてしまった。44(昭和19)年11月13日、「日本野球報国会」と名称を変えていた連盟は「活動休止」を発表し、9年に及んだ職業野球の継続を断念した。

 <しかし、それは本当の終わりではなかった>(203頁)と山際は書く。

 関西に拠点を置く4球団が中心になり、45(昭和20)年の年明け早々、甲子園と西宮球場で5日間にわたり、連日2試合の「正月野球大会」を挙行した。参加した選手は、阪神軍と産業軍の連合チーム「猛虎軍」が13人、阪急軍と朝日軍で作る「隼軍」が14人。

 大会3日目、関西地方に空襲警報が出て試合が中止になったほかは4日間で8試合が行われた。試合の方は猛虎軍が7勝1敗と圧倒したのだが、4日間で約8500人の観衆が生の野球を楽しんだ。

 結語として山際は最後にこう締めくくった。<グラウンドで躍動する選手、声援を送るファン。生きるか死ぬかの戦時にもかかわらず、何故、人々は球場に集まってきたのか。そこには、醜い争いごとなどない、明日への希望があった。そして、命を奪い、社会を崩壊させていく戦争に対する怒りを意思表示する場でもあった>(207頁)

 大会の7カ月後、日本はポツダム宣言を受諾し、終戦を迎えた。

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