2025年12月5日(金)

Wedge REPORT

2025年8月24日

 読売新聞の主筆だった渡辺恒雄(1926〜2024年)は2012年のインタビューで学徒出陣の経験を筆者にこう語っている。

 「軍隊ではぶん殴られるわけですよ。『股を開け、歯をくいしばれ』。それで皮のスリッパでターンとやられる。早稲田大学の奴だったね。小隊長が外語(東京外語大学)と明治(大学)。(自分のように)東大行ったやつは癪に障ると殴るんです」

 大学進学率が一桁とはるかに低かった当時、兵営では大学出同士でも、出身大学の差異が無為な暴力を生んだ。実体験をもとにした渡辺の証言だ。

 渡辺は兵舎にイマヌエル・カントの哲学書『実践理性批判』を隠れて持ち込み、日々の横暴に耐えた。「カントの言葉は僕の宗教だった」。当時18歳だった渡辺に響いたのは「道徳律」という言葉だ。

 「個人の価値の無限性をうたうカントのエキスです。普遍に合致するように行動せよという至上命令なんです。(自分を殴る)こいつらは人格のないやつ。道徳律がなく努力もしない虫けらだと。虫けらが人間をひっぱたいてもかまわない。そんな思いで耐えたね」

 渡辺はぼろぼろになった文庫版の『実践理性批判』を手に、一節を読み上げた。

 「感歎と崇敬を以つて心を充たすものが二つある。それはわが上なる星の輝く空とわが内なる道徳律とである」

 戦争が怖いのは、兵が殺人や蹂躙を強いられるから、だけではない。前線どころか、国内でも兵営に入った途端、大の大人が自我、人間性を押しつぶされるところにある。

(キネマ旬報社, Public domain, ウィキメディア・コモンズ経由で)

 そんな兵の現実を描いた日本映画に『真空地帯』(1952年公開)がある。監督は『戦争と人間』3部作や『あゝ野麦峠』『皇帝のいない八月』など戦記物で知られる山本薩夫(1910〜83年)。原作は公開の年に発表された野間宏(1915〜91年)の同名小説だ。野間も監督の山本同様、過酷な従軍経験がある。


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