ダーダネルス海峡でニュージーランドの祝日ANZAC Dayに思いを馳せる
7月17日。ダーダネルス海峡のチャナッカレ市から、フェリーでダーダネルス海峡対岸のガリポリ半島に渡った。第一次世界大戦の戦没者慰霊碑の説明文を読むと、英仏連合軍がオスマン帝国の首都イスタンブール攻略と地中海から黒海への制海権を得るためにゲリボル半島を占拠するべく1915年4月から半年にわたり激戦が繰り広げられたという。
最大の激戦地は“アンザック湾”(ANZAC Bay)と名付けられたという説明を読んで、2年前のニュージーランド南島のクライストチャーチ近郊での情景がフラッシュバックした。4月25日は国民の祝日アンザック・デーであり、クライストチャーチ近郊の町でも退役軍人のパレードがあり、退役軍人クラブでは祝賀パーティーがあった。※2023/06/03付け拙稿『平和国家ニュージーランドは何のために世界中で戦ってきたのか』ご参照。
2年前ニュージーランドの各地で戦没者慰霊碑を見た。どこでも第一次世界大戦での犠牲者が第二次世界大戦よりも格段に多かった。そして戦没地として格段に多かったのがガリポリ(Gallipoli)だった。ガリポリはトルコ語ではゲリボル(Geliboru)と表記される。そのガリポリの戦跡を歩いていると思うと感慨無量であった。
4月25日にゲリボル半島に上陸した英仏連合軍は、ムスタファ・ケマル大佐率いるオスマン帝国軍に大敗する。約半年の激戦で大英帝国国王麾下のニュージーランド義勇兵は2万7000人、オーストラリア義勇兵は9000人戦死という両国史上最悪の悲劇だった。そして両国の血盟の絆の象徴としてアンザック・デーという両国民の祝日となったのだ。
ムスタファ・ケマル大佐は国民的英雄となり、その後祖国防衛戦争を指揮し、1923年トルコ共和国初代大統領に就任した。
熾烈な権力闘争を経て初代大統領になったムスタファ・ケマル
ゲリボルの戦いでムスタファ・ケマルは国民的英雄となったが、彼の他にも英雄として名声を得た軍人は何人もいた。
彼は祖国防衛戦争でリーダーとなるが、ライバルも存在しており、祖国防衛戦争後の主導権争いも熾烈だった。ムスタファ・ケマルは政教分離(世俗主義)により、徹底してイスラム教を政治や社会制度から排除しようとした。
ムスタファ・ケマルのライバルはイスラム的価値観を重視し、宗教的保守層からなる支持基盤を持っていた。
