反対派を粛清して一党独裁体制を固め国父“アタチュルク”となる
1923年にトルコ共和国が成立して、ムスタファ・ケマルは大国民議会で大統領に選出されたが、権力基盤は盤石ではなかった。政教分離に反発する反ムスタファ・ケマル勢力は野党を結成。1925年に勃発したクルド人の叛乱を武力制圧したが、翌年ムスタファ・ケマル暗殺未遂事件が発生。ムスタファ・ケマルは事件に関与した反対派を断固処刑して野党を即時解散させた。
こうしてムスタファ・ケマル率いる共和人民党による一党独裁体制を確立して、大国民議会から“アタチュルク”の称号を得たのである。
アタチュルクは“理想の独裁者”だったのか?
アタチュルクは1923年に国民大議会により選出され初代大統領に就任。1938年に病死するまで一党独裁の下15年間大統領の職にあった。長期独裁政権にありがちな親族や縁故者の汚職スキャンダルがなく、自身も金銭的には潔癖であったようだ。
外交的には中立を守り、平和外交に徹したことで国内経済を安定させ、国家の近代化に成功したことで、独裁者というマイナスイメージがない。逆に一党独裁・長期政権だからこそ国家運営が安定し近代国家建設が成功したと言えるようだ。
アタチュルク亡き後、1938年に第二代大統領となったアタチュルクの忠臣イスメト・イノニュは、第二次大戦後の1950年まで一党独裁の下でアタチュルクの政治理念を忠実に継承した。
アタチュルクのプライベートは“英雄色を好む”“大酒飲み”
アタチュルクは、私生活では国父として国民のお手本にはなりそうもない。“英雄色を好む”そのものであり、生涯艶聞が絶えなかったと何かの本で読んだ記憶があった。ところが、ネットで検索しても女性問題について情報がない。唯一、東京外語大トルコ語学科学生の卒業論文「ケマル・パシャの人物像、女性関係から見たケマル・パシャ」があったので一部要約を紹介したい。
アタチュルクは生涯に一度だけ結婚している。相手はイズミールの大富豪の娘ラティフェ・ハヌン。パリで育ち高等教育を受けた24歳の美貌の才媛。出会いはなんと祖国防衛戦争でギリシア軍が占領していたイズミールをトルコ国民軍が奪回した数日後。国民軍を歓迎する彼女の実家のパーティーでアタチュルクが一目惚れ。
アタチュルクは出会ってから毎日手紙・電報でこまめに彼女に連絡している。筆者はこのあたりのアタチュルクの神経は“常人ではない”と思う。一分一秒でも時間が惜しい国家存亡の危機の最中にトルコ国民軍のリーダーが一目惚れの相手に貴重な時間を割いているのだ。
共和国成立直前の1923年1月に結婚して、1年半後には離婚同然となり、1925年に正式離婚。卒論では離婚理由は不詳としているが、筆者はアタチュルクの女性関係と推察する。上述のチャナッカレ在住の知識人は「アタチュルクは仕事が多忙で彼女と過ごす時間がなかった。もう一つの理由は、彼女がインテリであり、アタチュルクの政治理念や政策を批判したこと」とアタチュルクを擁護したが。
卒論によると文献で名前と素性が分かる恋人だけでも幼年学校時代から晩年に至るまでに12人。そのうちの3人がアタチュルクに捨てられた後で自殺しているという。さらに筆者が昔読んだ本では“一夜限りの女性は数え切れない”とあった。
卒論によるとアタチュルク存命中から始まったアタチュルク神格化過程で、ネガティブなプライベートを暴くことは憚れた。その結果、女性関係や飲酒問題などネガティブな情報を含む文献や写真が処分されたので、実像を探ることは難しいと結論。
アタチュルクは毎晩の深酒と薬物乱用により、第一次世界大戦中に一時軍務を離れ療養を余儀なくされたが、生涯大酒飲みは改まらず肝硬変で57歳の若さで没している。彼が医師に「カルテに肝臓病はラキア(ウオッカのようなトルコの伝統酒)が原因ではないと書いてくれ」と依頼したことは事実のようだ。
個人崇拝と神格化は厳しい現実政治における必要悪なのか
第2代大統領イスメト・イノニュは1950年に欧米の圧力で一党独裁を放棄し、複数政党制へ移行。途端に神格化されていたアタチュルクの銅像や肖像への破壊行為が多発した。対抗措置として1951年にアタチュルク侮辱禁止法を成立させた。
その後クルド人の武力闘争に対抗して、政府はトルコ系トルコ国民の統合を図るべくアタチュルクを国民統合の象徴と位置付けてきた。2003年から長期政権を握る現エルドアン大統領は本来イスラム保守派であり、アタチュルクが定めた国是である政教分離(世俗主義)を徐々にかつ慎重に修正してイスラム色の濃い社会づくりを目指している。
同時に政権運営にあたりトルコ系トルコ国民の愛国心と、忠誠心を得るべくアタチュルク崇拝を政治利用している。アタチュルクへの個人崇拝と神格化は現在進行形なのだ。
以上 次回に続く
