トルコにブルガリア人小学校が35校もあるのはなぜか?
7月7日。マルマラ海沿岸の港町ヤロワから古都イズニック(旧名:ニケーア)を目指して走った。炎天下のウルアバト湖沿いの道の路傍の木陰で休憩していた時、自転車で通りかかった地元の男から興味深い話を聞いた。
男性はイスラム教徒のブルガリア人でソ連邦崩壊後に一家でトルコに移住したという。現在ブルガリア人小学校の教師をしているが、トルコにはなんと35校のブルガリア人小学校があるという。
男性の話ではどうも共産党支配が崩壊して新生ブルガリアになるとブルガリア正教徒のブルガリア人のナショナリズムが高揚してイスラム教徒のブルガリア人は差別・憎悪の対象になったようだ。そのため“トルコ系やトルコ文化に連なる”イスラム教徒難民を受け容れていたトルコに移住したようだ。
ソ連邦崩壊後のバルカン半島の過激なナショナリズムとトルコへの亡命
以前バルカン半島を自転車旅行した時に見聞した旧ユーゴスラビア地域のボスニア・ヘルツエゴビナや、コソボで行われたセルビアによる“民族浄化”を思い出した。正教徒スラブ民族であるセルビア人がイスラム教徒住民を抹殺しようと武力行使したが、ブルガリアでも過激なナショナリズムが吹き荒れたようだ。
筆者の理解ではバルカン半島を統治したオスマン帝国は、トルコ人をバルカン半島に移住させて治安維持や徴税など統治機構に利用し、他方で現地の正教徒の住民の一部も免税などの優遇措置をうけるべくイスラム教徒に改宗した。こうしてバルカン半島のイスラム教徒は現地社会の支配層・富裕層となっていった。これがキリスト教徒住民の長年の反感と憎悪を招くことになったという歴史的背景である。
ブルサ在住のブルガリア難民一家の娘は幸せになれるのか
7月22日。エーゲ海沿岸の都市アイワルクに近い幹線道路沿いのガソリンスタンドで従業員の青年と親しくなった。22歳の青年は8歳で母を亡くし義理の父の養子になった。義理の父の仕事の関係で子どもの頃から競馬の騎手となるべく訓練を受けた。念願のプロの競馬騎手となって数年間活躍したが、落馬事故で再起不能の大怪我をして引退した。
現在はガソリンスタンドに住み込みで働いて金を貯めている。青年の目標は十分な資金を貯めて現在交際している娘と結婚することだという。彼女の一家はブルガリアから亡命してきたという。彼女はイズニックに近いブルサに住んでいる。ブルサには亡命ブルガリア人のコミュニティーがあるようだ。
7月22日。アイワルク市内で出会ったチャナッカレの大学生にブルガリア人の移住者の話をしたら、トルコはソ連邦崩壊後にブルガリア、ルーマニア、旧ユーゴスラビアなどバルカン半島からの政治難民を数多く受け入れており、トルコ各地にコミュニティーがあると解説してくれた。
オスマン帝国の崩壊後トルコ共和国は積極的に亡命者を受け容れた
7月17日。チャナッカレのロンドン留学経験のある70歳の経営者から100年前の亡命移住者の話を聞いた。第一次世界大戦の敗戦でオスマン帝国が崩壊し1923年にトルコ共和国が成立する過程でハンガリー、ルーマニア、マケドニアやアルメニアなどが旧オスマン帝国支配下から独立した。
当時は米国大統領ウッドロー・ウイルソンが提唱した民族自決主義思想の影響もあり、欧州各地の民族のナショナリズムが高揚した時期である。偏狭なナショナリズムの嵐の中で旧オスマン帝国領土に暮らしていたトルコ系イスラム教徒は、トルコ共和国への亡命を余儀なくされたのだ。
トルコ共和国はこうした旧オスマン帝国領土からのトルコ系イスラム教徒亡命者を積極的に受け容れた。この背景には国父ケマル・アタチュルクが提唱したトルコ民族主義というイデオロギーがある。さらに国力増強のために国民を増やすという切実な事情があったようだ。
1925年にはギリシア・トルコ戦争の戦後措置としてギリシア在住のトルコ人、トルコ在住のギリシア人を祖国に帰還させる住民交換協定を結んでいる。その結果100万人のギリシア人が帰国して50万人のトルコ人が戻って来た。
トルコは世界最大級の難民受け入れ国
タリバン支配が始まった近年も、イラン経由で越境してきたアフガン難民をトルコは数十万人規模で受け入れた。ちなみに数百万のアフガン難民の大半を受け容れたのは、隣国のイランとパキスタンである。筆者が話を聞いたトルコ人の平均的認識では現在でも帰国しないアフガン難民が相当数トルコに滞在しているという。
シリアでアサド政権が倒されて新政権が成立したが過去に受け容れたシリア難民は帰国せずに300万人がトルコに滞在しているようだ。AARという難民支援NPOによると2024年末時点で290万人という。
