トルコ人のシリア難民への不満は我慢の限界か
トルコ旅行中に難民(特に多数を占めるシリア難民)に対するトルコ人の嫌悪感情をしばしば耳にした。曰く、「難民はトルコ国民の収めた税金で生活している」、「トルコ人の仕事を奪っている」、「治安が悪くなった」などである。前述のAARが公表している数字がトルコ人のシリア難民に対する嫌悪感情の背景を明確に表わしている。
- 難民の98%は難民キャンプではなく街中に住み42%は貧困状態である
- 仕事している難民の97%は労働許可を取得していない
- トルコ人の78%が難民により治安が悪化したと考えている
トルコ国内でのエルドアン政権の難民政策への批判
筆者が見聞したエルドアン政権の難民政策批判は整理すると以下のようになる。
- エルドアンは汎イスラム主義者(注:エルドアンは宗教指導者養成学校を卒業後に大学で経済商学を学んだ保守的イスラム教徒)であり民族を問わずイスラム教徒であれば同胞として受け容れる。トルコ共和国は建国以来国父アタチュルクの唱道するトルコ民族主義を国是としてきたがエルドアンの汎イスラム主義は国是に反する。
- アラブ人のシリア難民をトルコは受け容れているが、エルドアンは生活費補助・公的医療無償・税金免除などの優遇策を提供。トルコの市民権を得たシリア人(ネット情報では凡そ20万人)は投票権行使してエルドアンを支持している。シリア新政権が発足してシリア国内が安定してもシリア難民を強制送還しない(注:一部は強制送還したという情報もある)。トルコ国民の負担で難民を受容する政策への不満と批判。
- エルドアンは外交上の交渉材料としてEUと協定してEUへの難民流入の防波堤となっている。EUからは見返りに支援金を得ているがトルコ国民の負担に比較して不十分である。
オスマン帝国末期、帝国の強化と近代化を模索した思潮
トルコ共和国は上述のように旧オスマン帝国領土を中心とした地域から共和国成立以来大量の亡命者・移住者・難民を受け容れてきた。
オスマン帝国は皇帝の下でイスラム教徒トルコ民族を中心とした多民族・他宗教国家であった。皇帝はスルタン(世俗の最高権力者)兼カリフ(イスラム教の最高指導者)であった。
オスマン帝国末期に英仏露の帝国主義的拡張政策(=植民地化)から領土と帝国を守るべくオスマン帝国の改革と体制強化を図る動きが出てきた。最初に出てきた思潮(イデオロギー)がオスマン帝国は多民族・多宗教が平和に共存する国家であるという“オスマン主義”である。しかしイスラム教徒トルコ人と他民族・多宗教を平等に待遇すると皇帝への求心力が弱体化するという矛盾があった。
次に出てきたのが“汎イスラム主義”である。イスラム教徒は異民族であっても平等であり全てのイスラム教徒は団結するべきだというイデオロギーである。汎イスラム主義は西欧的近代化に反対するイスラム保守派の支持を得たものの日本の幕末の尊王攘夷運動同様に科学技術を含む西洋近代文明を否定したので近代化に逆行することになった。
3番目に出てきたのが“汎トルコ主義”でトルコ系民族を広く糾合してオスマン帝国のスルタン専制政治を打破して立憲君主制国家に改革しようとする運動(青年トルコ党)につながった。しかし汎トルコ主義はオスマン帝国内の他民族のナショナリズムと対立するものでありオスマン帝国解体の要因ともなった。
トルコ共和国の亡命者・移住者・難民受入れにある思想とは
筆者の多分に独断と偏見と想像を含む私見を以下披露させて頂きたい。
トルコ共和国が建国直後に大量のトルコ系亡命者・移住者を受け入れ、ギリシアと住民交換を実施した背景にあるのは初代大統領ケマル・アタチュルクが唱道した汎トルコ主義(トルコ民族主義)そのものであろう。
ソ連邦崩壊後にトルコ系及び非トルコ系のイスラム教徒の亡命者を受け入れたのはトルコ主義+汎イスラム主義に基づくのではないだろうか。
さらに近年エルドアン大統領がシリア難民を受け容れたのはEUとの外交上の取引材料という打算もあるが同時に汎イスラム主義が背景にあるのではないか。
以上 次回に続く
