2025年12月7日(日)

古希バックパッカー海外放浪記

2025年12月7日

(2025.7.2~9.24 85日 総費用34万2000円〈航空券含む〉)

トルコ人のルーツは中央アジアの遊牧民というが現代のトルコ人は白人?

ぺルガマへの途上休憩に立ち寄ったフランス系トータル石油のガソリン スタンドの従業員。外見上は白人っぽく筆者にはギリシア人と見分けがつかない

 今回トルコをじっくりと自転車旅行して初めて気がついたのが、ほぼ全てのトルコ人の風貌・骨格が白人っぽいことである。金髪も多いしビーチで見かけるトルコ女子は、欧米女子と見分けがつかない。

 地理的にトルコはアジアとヨーロッパが交錯する位置にあり、太古の昔から東西の往来の要衝であったので、トルコ人はアジア系が半分近く占めていると筆者は誤解していた。

 確かにワールドカップではヨーロッパ予選に出ている。イラク、シリア、イランなどトルコの周辺国はアジア予選に出ているのに、スポーツの世界ではトルコは、ヨーロッパに分類されているようだ。アジア大会にもトルコは参加資格がない。歴史の教科書ではトルコ人は中央アジアから移動してトルコに定住したと書いてあったと記憶しているが。

 トルコ人と話していると「トルコ人の祖先は中央アジアの遊牧民であったが、2000年前から徐々に移動して、その一部がアナトリア地方に定住した」と遊牧民というルーツについて誇りをもって語る人が多い。「トルコ軍には勇猛果敢な遊牧民の騎兵部隊の伝統が継承されている」と退役軍人のトルコ男性は自慢していた。

 トルコ系民族がセルジュク・トルク王朝を興して、後継のオスマン王朝がオスマン帝国を作り上げ世界帝国を築いたのであるから、遊牧民が現代トルコ人のルーツというのは史実であろう。しかし、中央アジアの遊牧民というと人種的には、モンゴル人のようなモンゴロイド(黄色人種)に属するはずである。それなのに現代のトルコ人は外見上コーカソイド(白人種)のようだ。

 不思議に思ってネット検索すると「現在のトルコ人の祖先(突厥など)はモンゴロイドであったが、中央アジアから西に向かって長い年月をかけて移動する間にコーカソイド系民族と混血を繰り返した結果、現代トルコ人はDNA分析によりコーカソイドに分類されるようになった」という学説があった。納得!

トルコとギリシアは文化的には一卵性双生児?

 トルコ人の99%はイスラム教徒であり、ギリシア人の90%がギリシア正教徒である。トルコはどんな田舎でも集落のあるところ必ずモスクがある。ギリシアも日曜日午前中はギリシア正教のミサや司祭の説教をテレビ放送している。つまり両国ともに宗教色が強い。トルコでは男性はトルコ帽、イスラム帽を被り、一部の女性はヘジャブと呼ばれる顔や体形を隠すイスラム的服装をしているのが唯一の顕著な違いに思える。

 ところが今回トルコで庶民の生活を観察したところ、現代トルコ文化は驚くほどギリシアと酷似していることに気づいた。トルコ人は風貌や体形もギリシア人と見分けがつかない。髭面が多いことも一因であろう。

 トルコ音楽はギリシア音楽と筆者には区別がつかない。トルコ・コーヒーとギリシア・コーヒーは呼び方が異なるだけで、淹れ方や飲み方は全く同じだ。ギリシア料理とトルコ料理は肉の串焼き、ヨーグルトを多用することなど見た目は変わらない。例えば、茄子とひき肉を使う家庭料理のムサカは両国共通で呼び方も同じだ。そしてギリシアの蒸留酒ウーゾとトルコの蒸留酒ラキアは呼び方が異なるだけで同一である。東ローマ帝国時代に現在のトルコでラキアが造られギリシアに伝わったのだ。

ウルアバト湖の漁村ギョルヤズにはなぜギリシア正教会があるのか

ギョルヤズ村の信者のいないギリシア正教教会。現在は地元の観光協会 が観光資源として管理している

 ギョルヤズ村は「欧州の美しい村、ベスト30」に選ばれたウルアバト湖に突き出した半島の先端にある鄙びた村である。トルコには珍しく教会があったので中に入ると受付兼案内の青年がいた。青年によると100年前まで使用されていたギリシア正教の教会とのこと。現在は信者がいないので観光客向けに一般公開しているという。

 青年によると19世紀半ばにギリシア正教会は建てられた。オスマン帝国内には広くギリシア人が居住していた。当時ギョルヤズにはギリシア人が多く住んでいたので教会が建てられた。

 ところが第一次世界大戦でトルコは敗戦国となり、オスマン帝国は崩壊。第一次世界大戦では英仏など連合軍の支援を受けて、ギリシアはエーゲ海の島々を占領、さらに戦後の混乱に乗じてギリシアはイズミールなどトルコ本土東部をも占領した。その後ケマル・アタチュルク率いるトルコ軍が反撃して、ギリシア軍はトルコ本土から撤退した。このギリシア・トルコ戦争が終結した後、1924年に両国は相手国に居住している自国民と自国に居住している相手国民を交換するという「住民交換協定」を締結したという。協定により100万人のトルコ在住のギリシア人と50万人のギリシア在住のトルコ人が移住した。

 この協定によりギョルヤズ村に住んでいたギリシア人は、ギリシアに移住した。代わりにギリシア在住のトルコ人がギョルヤズ村に移住してきた。このトルコ人移住者の子孫が現在のギョルヤズ村の村民であるという。

 なお、青年の説明によるとギョルヤズ村では第一次世界大戦までは正教徒のギリシア人とイスラム教徒のトルコ人は良き隣人として共存していたとのこと。

トルコ各地に残る百年前にギリシア人が退去したギリシア人街

カヤキョユ村の丘の中腹に広がる100年前に住人が全員退去してゴー ストタウンと化した旧ギリシア人居住区。学校や教会の廃墟もある

 8月3日。ビーチリゾートのチェシメ近郊のアラチャトゥの繁華街を歩いた。ここには19世紀後半にギリシア人により作られた街並みが残されている。ギリシア風の建物はレストラン、カフェ、土産物屋として活用され人気観光スポットとなっている。当時のギリシア正教会は改修され尖塔が増築されてモスクとなっている。この町のギリシア人も住民交換協定により100年前に全員立ち退いてギリシアへ移住したのだ。

 8月23日。地中海沿岸のリゾート都市フェティエから山を越えると、カヤキョユという村がある。この村の丘の腹には無数の石造りの朽ちた建物が並んでいる。これらは100年前の住民交換協定によりギリシア人が退去した住居であるが、利用されず放置されていたのでゴーストタウンのように荒れ果てている。


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