「応用昆虫学」の専門家から
家業の「漆」に転じる
伝統産業には欠かせない漆だが、日本の伝統的工芸品自体の生産額は1983年の約5400億円をピークに減少しており、今やその5分の1に。もはや昔ながらの用途だけでは漆の需要回復は望めそうにない。
だが、佐藤喜代松商店には強力な切り札があった。これまでの漆より利用範囲が広く格段に高性能の「MR漆®」である。MRとは化粧品や薬品工場などで使われる「三本ロールミル」という機械のこと。これまでは生漆を大きな桶に入れ、職人が手作業で攪拌していた。しかしMRは漆をすりつぶすようにして分散するため粒子が小さく均質になる。
「3代目の父が90年代から『漆を科学する会』などの勉強会を立ち上げ、京都市産業技術研究所(産技研)と共同で漆の研究に取り組んできました。そのおかげで産技研の特許を技術移転し『MR漆』という新しい漆の開発に成功したのです。
MR漆はこれまでの漆より乾きやすく作業効率が上がります。また通常の漆は湿度の高い『室』に入れて乾かさなければなりませんが、その必要がありません。しかも、太陽光、気温、雨など自然環境に対する『耐候性』が高く活用範囲が広いのです。下地の工夫次第で、どんな素材にも使える優れた漆です」
良いことずくめの新漆だったが、すぐに実用化されたわけではなかった。というのも佐藤さん自身、この漆が開発された頃は漆に興味もなければ家業を継ぐ気もさらさらなかったのである。
「京都府立大学大学院の農学研究科で『応用昆虫学』を専攻し農業害虫の防除について研究していました。2000年から青年海外協力隊として2年間、中米のエルサルバドルの農学校で働き、その後は世界各地の農業プロジェクトにかかわるJICA (国際協力機構)の専門家になりたいと考えていました。博士号を取ろうと、02年に論文をまとめるために京都に戻ってきたのです。
その際に、アルバイトがてら父の家業を手伝い始めましたが、漆をサイエンスとしてとらえ実験データを取り分析すると、これが面白い。すぐに夢中になりました」
いつしかJICAのことなど忘れ、各産地から送られてくる漆の成分分析などに、のめり込んだ。一方、「MR漆」は実験室ではすでに完成していた。今後どのように新しい漆を世に広めていくか、実用化に向けて動き出そうという段階に差し掛かっていた。
「『新たな漆は従来のものより丈夫なんです』と説明するだけでは説得力がありません。何に対してどう強いのか。それは熱なのか、水なのか、傷のできにくさなのか。具体的かつ客観的なデータで科学的に品質の良さを伝えていきたいと考えました」
