2026年1月22日(木)

Wedge REPORT

2026年1月22日

保安林制度の歴史

 このような森林、森林生態系を守り育てることこそが本来の治山なのだろうが、現状はどうなのだろうか。森林法において治山の根拠となる保安林制度が規定されていて、保安林に指定された森林において、林地の開発規制と樹木の伐採規制が行えるようになっている。

 江戸時代には、幕府や藩が狩猟や伐採を禁止する「止め山」を設けていた。将軍家や藩主の狩場や、幕府や藩が使う木材を保護するための法度(はっと、制度)であった。

 例えば、津軽や裏木曽では、伐採が集中して洪水が起きた流域を留め山として伐採を禁止し、森林の回復・充実待って、明山(あけやま)として伐採を許すなどの森林行政を行っていた。入林を禁止する厳しいものから、建築用材として有用な針葉樹を留木(とめき)としてそれ以外の広葉樹は地元民に利用させるなど、様々な運用形態が見られる。各地に残る「乙女山(御留山)」などの地名は、こうした制限林の名残である(写真2)。

写真 2 東京都新宿区おとめ山公園

 明治時代に入ると、民有林については伐木が自由となり、農業・肥料等の原料として村持山(むらもちやま)、入会山(いりあいやま)などから下草、落葉落枝、薪炭材等が無秩序に採取され、森林が荒廃して災害が多発した。明治29年(1896年)に未曾有の大水害が起きたことから、明治30年(97年)に森林法が創設され、その中心に保安林制度が規定され、森林保全への取り組みが始まったのである。

 しかし、その後長らく森林は国民生活を支えるための重要な資源であり続けた。建築用材としての需要はもとより、最重要なのは燃料材で、炊飯、採暖用に増え続ける人口を支えるために過剰に伐採された。また落葉落枝、下草は農業用の肥料として採取された。

 それらによって林地の養分が不足して瘠せ地に強いマツ林が増加する。明治神宮の森を設計した本多静六博士は、この状態をアカマツ亡国論として嘆いている。

 したがってこの時期は、森林の過剰な伐採による国土の荒廃をいかに防ぐかが問題であったし、森林生態系の保全といった高度な理論はまだ究明されていなかった。林地の保全と木材資源の確保に有用なスギ、ヒノキといった針葉樹が造林されたのは、当時の技術としては最善であり、時代の要請にかなっていたのである。


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