もし東京に流入する若者が減るのだとすると、50年後には大変なことが起きているだろう。その頃には、団塊の世代はもちろんのこと、私のような団塊ジュニア世代も100歳を超えていて、ほとんどがこの世にはいないはずだ。ところが、我々よりも若い世代は東京に集まり続けたので、現在の40代や30代が大量の90代や80代となって暮らしていることになる。
一方の20代や30代は減り続けるとなると、東京圏は逆ピラミッド型の人口構成になるだろう。
そんな時、東京圏以外の地域を眺めてみると、高齢者から若者までがだいたい同じくらいの数になるような「ドラム缶型の人口構成」になっている可能性が高い。逆ピラミッド上部の横幅が縮んでドラム缶型になるイメージである。
さて、その頃の東京圏に住む若者は、大量の高齢者とともに住み続けるか、少数の高齢者と少数の若者とで暮らす地域に移住するかを悩むことになるかもしれない。その頃の地域は、自動運転車の交通インフラやオンラインによる良質な教育、遠隔医療などの整備も充実していることだろう。
縮小の時代を迎えたいま
あえて疑うべき「前提」
これからは、どう生きるのかが問われる50年になりそうだ。誤解を恐れずに言えば、私が選択肢の一つとして提案したいのは、経済を成長させるためだけに生きようとすることをやめてみてもいいのではないかということである。
それに気づけば、欲望に火をつけ、「人々の心の中に欲しいものを増やす仕事」に従事しなくて済むようになるし、逆に「誰かから欲しいものを増やされる心配」もなくなる。欲しいものが減るなら、仕事の時間を減らしてもいいし、低賃金であってもやりたい仕事に集中することもできる。そこまで準備ができたなら、東京圏で暮らし続けて、相応の家賃を払い続ける必要はない。
「原始生活に戻れというのか」という指摘もあるだろう。こういう指摘に対して「そうではない。原始生活に戻るのではなく、バランスを取るのだ」という反論もある。
しかし、こうしたやりとりには「原始生活は悪いものである」という前提があるように感じる。その前提を疑いたい。
「原始社会、封建社会、民主主義社会、資本主義社会へと社会は進化してきた」「原始社会への退化は許されない」という考え方は、欧米という「世界の一部の地域」で考えられてきたものであり、世界共通の真理ではないはずだ。欧米以外の地域においては、「原始社会から続く生活を、これからもずっと続けることに価値がある」と考える人も多く、循環型で持続可能な社会を標榜する地域も多い。それを実現させるために必要なしきたりやルールを長い間維持してきた歴史もある。

