〝思い込み〟を振り払い
新たな生き方を見出す
進化を目指してきた欧米が世界大戦や環境破壊を起こした歴史を冷静に見つめてきた地域がたくさんある。そんな地域で暮らす人たちの叡智に対して「原始社会へ戻れというのか」などとはいえない。ましてや「〝後進国〟の開発を援助するために、先進国の知識や技術を導入して近代化してあげましょう」などともいえない。発展途上国とか、開発途上国とか呼ぶこともできない。
同様に、東京以外の地域を「発展途上地域」とか「開発途上地域」とか呼ぶことはできないだろう。しかし、実際にはそれを前提としているような「地域活性化」とか「地方創生」といった言葉が使われている。東京からみて、東京以外の地域を活性化させなければならない理由は何か。「地方」と呼ばれる地域を創生してあげたいのはなぜか。それは、東京から見てそれらの地域が不便であり、経済活動が乏しく、域内総生産や税収が伸び悩んでいるからという〝思い込み〟なのかもしれない。
「そんな視点は東京からの一方的なもので、我々の地域の実情には当てはまらない」と、東京以外の地域の人々は自信を持って言い返せるだろうか。
残念ながら、東京からの情報を受け取り続けた地域の多くは、自分たちの地域が本当に不便だと信じるようになってしまった。東京に比べて仕事の選択肢が少ないとか、購入できる商品の種類が少ないとか、おしゃれなカフェがないとか、高級なレストランがないとか感じるようになってしまった。
でも、こうした思い込みの多くが、長い間の「東京からの情報発信」によるものであり、実は「不便」だと思わされてきただけであり、自分たちで力を合わせれば、学び合い、手当てし合い、ともに愉しみ、ともに働き、食べるものの多くを自分たちで育て、快適に暮らすことができるのかもしれない。
東京からの情報に少し距離を取り、「顔が見える関係」にある地域の人たちとともに愉しい活動をしてみること。すると日本の総人口が増えようが減ろうが関係ないと思えるようになるだろう。むしろ「愉しいことをする仲間」が増えるか減るかのほうが重要になる。人口は減るかもしれないが、仲間とともに充実した人生を歩むことができる。こうした状態を「縮充」と呼びたい。
私は東京のような都市部の生活をなくすべきと思っているわけではない。また、「地球環境のために東京圏での暮らしをやめて、全員山奥へ移住せよ」というつもりもない。ただ、東京圏から出て、「縮充」という考え方を共有する人たちとともに暮らそうと思う人たちは、遠慮なくそれを実行できる社会のあり方があってもよいのではないかということだ。
過去を顧みれば、総人口に変化が見られるのは出生率が変化してから30年ほど後のことである。静止人口を目指して出生率を上げる「よきタイミング」は人口何千万人の時なのかはわからない。しかし、静止人口にたどり着いた時、結果的に高めの出生率を担保しているのが縮充地域であるとすれば痛快である。
