「工学は人々のために」
不毛の大地を変えた技師
八田與一とはどんな人物だったのか──。その生涯を紐解くには、與一の存在を世に広く知らしめた一人のキーマンに触れねばならない。
司馬遼太郎『街道をゆく40 台湾紀行』(朝日文庫)でも紹介され、與一の功績を後世に伝えたその人とは、愛媛県宇和島市出身の古川勝三氏である。1980年から3年間、文部省海外派遣教師として高雄日本人学校に勤務し、『台湾を愛した日本人 土木技師八田與一の生涯』(青葉図書、現在は創風社出版より出版)を著した。
與一は1886(明治19)年生まれ。東京帝国大学工科大学を卒業し、台湾で様々な水利事業に携わった。学生時代、與一は札幌農学校出身の東京帝大教授・広井勇氏から多くのことを学んだ。古川氏は言う。
「広井は学生に『橋を架けるなら、人が安心して渡れるような橋をつくれ』『工学はそれを使う人たちのためにある』と語るとともに、『工学は何のためにあるのか』という哲学的な問いを投げかけて討論したと言われています。そうした広井の教えが與一に影響を与えたことは間違いないでしょう」
台湾が日本帝国の版図に入って15年後の1910年8月、與一は台湾総督府土木部の技術者として、台湾に渡った。初代台湾総督・樺山資紀から第二代・桂太郎、第三代・乃木希典までは、原住民や抗日勢力の鎮圧に追われていた時代であったが、與一が渡った頃は、第四代・児玉源太郎、民政長官・後藤新平らによってインフラの基礎が築かれたのち、台湾開発が本格的な拡大期へと入っていく時代であった。
與一は、東京帝大の先輩で冒頭述べた「台湾上下水道の父」濱野弥四郎のもとで仕事し、台南上水道新設工事に従事する機会を得た。與一はこの時、水源である曽文渓を中心とした地域の地形に精通してゆく。
それがのちに、與一の生涯をかけた仕事となる「嘉南大圳」の設計の際、大いに役立つことを、この時の彼はまだ知る由もない。
では、嘉南平原とはどんな土地なのか。前出・水利署広報課長の陳氏が興味深いことを教えてくれた。
「台湾の中央を横切る『北回帰線』を境界として、台湾は北の亜熱帯、南の熱帯へと分かれます。地球上のこの緯度周辺には、サハラ砂漠など、世界最大級の砂漠地帯が広がっています。この嘉南平原も烏山頭ダムが建設されていなければ、砂漠化していた可能性がありました」
嘉南平原は、台湾最大の平原である。5月から9月までの雨季に集中して雨が降り、年間降水量は2500ミリ・メートルにものぼる。しかも、降水期は集中豪雨となり、かつては頻繁に洪水を引き起こしていた。
一方、秋冬の乾季には雨が降らず土地は乾燥し、季節風で砂塵が舞い上がり、飲料水の確保すらできない状況が毎年続いていたという。しかも、台湾海峡に近い海側の地域は、塩害にも苦しまされていた。
嘉南平原が洪水・干ばつ・塩害の三重苦が支配する「不毛の大地」といわれるゆえんだった。
與一は、そんな嘉南の大地に大規模な灌漑設備をつくる構想を持つに至った。
時あたかも、日本内地では18(大正7)年に米騒動が全国に波及して米価は高騰。コメの増産は政府にとっても重要課題となり、その影響は総督府にも及んだ。その動きは、嘉南平原の灌漑工事早期着工の後押しにもなった。
余談だが、與一はその前年の17年に米村外代樹と結婚する。與一31歳、外代樹16歳であった。
與一が構想した基本計画は、「八田の大風呂敷」とも呼ばれるものだった。前出・古川氏はこう解説する。
「灌漑区域は嘉南平原全体の15万ヘクタール。それは、東京23区の2.5倍近い広さであり、香川県に匹敵する規模でした。しかも、給水路と排水路をあわせると、台湾本島13周分の1万6000キロにも及ぶ規模です。
與一は、土地改良によってコメを作れば、7万5000トンの食料増産ができると考えました。
さらに、烏山頭と呼ばれる場所に巨大な一大土堰堤を築いて川を堰き止めるため、日本でも東洋でも誰も試みたことがなかった『セミ・ハイドロリックフィル工法』を採用したほか、烏山嶺という山に3000メートルを超える長さの隧道を掘り、曽文渓から導水することを考えたのです」
セミ・ハイドロリックフィル工法を採用したダムは当時、ダム先進国米国でさえ数例のみだった。與一はその後、自ら渡米して現地を視察し、確信を得ていた。まさに、東洋唯一にして最先端──。のちに「八田ダム」として世界に名を馳せる世紀の大プロジェクトは、こうして産声を上げた。
司馬遼太郎は『台湾紀行』で、この工事の壮大さを「日本史上、空前の大工事になる」と表現している。

