試練を乗り越え
完成した「嘉南大圳」
いよいよ烏山頭ダムの〝心臓部〟である堰堤内部に入った。まず目に飛び込んできたのは巨大な放水管だ。現在は使用されていないが、いざという時にはいつでも使えるようにメンテナンスしているという。さらに先に進むと厳重に守られた分厚い扉が見えてきた。
「これが堰堤中心のコンクリートコアです。漏水に備え、地上に出られる緊急脱出口もあります。與一の真骨頂は、二重、三重のセーフティーネットを設け、〝想定外〟が起きないようにしていたことです」
前出の德光氏はこう話した。
與一はなぜ、セミ・ハイドロリックフィル工法を採用したのか。
「台湾が日本同様、地震が多い島であること、烏山頭にコンクリートダムを築くための基礎地盤がないことが彼には分かっていたのです。
また、與一自身、このダムの寿命は50年と考えていましたが、まもなく100年です。しっかりとしたメンテナンスがなされている証しでもありますが、結果的に與一の提案したこの工法が正解だったということでしょう」(德光氏)
1920年に始まった「空前の大工事」は困難を極めた。なかでも與一が心を痛めたのは、烏山嶺隧道工事現場で大爆発事故が起き、50人を超える犠牲者を出したことだった。隧道を掘り進めていた時に石油ガスが噴出して、ランタンの火が引火したことで爆発が起きたのである。さらに、工事中の23年には、関東大震災が起き、復興に莫大な資金がかかることから、嘉南大圳への資金が大幅に減らされ、工事中断の危機や人員削減もしなければならなかった。
それでも與一は決して諦めなかった。大工事を経て、30年、ついに烏山頭ダムは完成したのである。
「同郷の先輩なのに、こんな大事業を成し遂げた人のことを私はまったく知らなかったんです」
取材中、德光氏はこう吐露した。
95年に台湾へ渡った德光氏が與一の存在を知ったのは、2002年のこと。日本人学校に通う愛娘が李登輝元総統の講演を聴き、帰宅するなり「八田與一さんって知ってる?」と問いかけてきたのだ。渡台して7年が経っていたのに、まったく知らなかった。それは德光氏にとって、人生の大きな転機となる。以降、何かに突き動かされるように八田與一という人物にのめり込み、ダムの歴史を学び、今では多くの人々にその功績を伝える「語り部」としても活動するようになったのだ。
気がつけば、時計の針はすでに午後4時。午前10時から始まった取材は、6時間が経過しようとしていた。改めて、「烏山頭ダム」の広大さを感じた。
最後に取材したのは、曽文渓の水を引き込む烏山嶺引水隧道の東口と西口だ。かつての烏山嶺隧道は現在、バックアップ用としてその役目を終えているが、そこから約300メートル離れた場所に、工事開始から100年後の2020年、新烏山嶺引水隧道が竣工した。その際、與一たちが直面し、記録していた石油やガスの噴出事故を分析し、万全の対策を講じて完遂させたという。当時の犠牲と教訓が、現代に生かされたのだ。
烏山頭ダム完成後の八田夫妻には悲しい後日談がある。與一はのちに陸軍に徴用され、フィリピンの灌漑事業調査に向かうため広島・宇品港から大洋丸に乗り込むが、米潜水艦の雷撃により非業の死を遂げる。享年56。さらに妻の外代樹は終戦直後、烏山頭ダムの放水口に身を投げ、夫の後を追った。享年45。八田技師記念室の近くにある、その放水口に立った時、私は胸が締め付けられるような思いがし、思わず手を合わせた。
そして、八田與一の銅像の前に立つ。その視線の先には、彼が人生をかけて築き上げた巨大な「堰堤」と、嘉南平原の大地を潤し、美しい水を湛える「珊瑚潭」が広がっていた。
10年という歳月をかけて完成した「嘉南大圳」。銅像とその後ろに寄り添うように佇む墓所から、與一と外代樹はどのような思いでこの風景を見つめているのだろうか。

