後藤新平の思いをつなぎ
海を渡った新幹線
「昨今、世界的に有名なアーティストのコンサートや交響楽団の公演場所として高雄が選ばれ、コンサートエコノミーが確立しつつあります。そうした中で、台湾新幹線は多くの方に利用され、台湾人の生活にすっかり溶け込んでいます」
こう語るのは、日本台湾交流協会高雄事務所長の奥正史氏だ。
2007年に開業した台湾新幹線は25年度の年間利用者が8200万人を超えた。開業から約20年で、台湾社会に欠かせないインフラになったと言っても過言ではない。
それがなぜ日本統治時代に関係するのかと首をかしげる読者がいるかもしれない。その鍵を握る人物は「台湾近代化の父」後藤新平である。
医師でありながら、アイデアリストでもあった後藤は、民政長官として活躍後、1906年に南満州鉄道(満鉄)初代総裁に就任し、大連を拠点に満州経営に乗り出す。この時、台湾時代に育てた多くの若手人材を起用した。その後、鉄道院総裁に就任した後藤は、日本の鉄道を欧米並みに改良・進歩させるため、それまでのゲージ幅1067ミリの「狭軌」から国際標準軌・1435ミリの「広軌」に改築する計画を打ち出す。
だが、原敬ら立憲政友会系の議員によって否定される。彼らは狭軌で全国に鉄道をつくり、その後広軌を検討する方針だった。自分の選挙区に鉄道を引く「我田引鉄」が選挙結果に大きな影響を与えたからだ。
後藤が掲げた広軌新幹線構想は「明治以来の先人たちの夢」だった。その後藤の遺志を継いだのが「線路を枕に討ち死にの覚悟」と述べ、広軌新幹線建設に命懸けで臨んだ第四代国鉄総裁・十河信二である。実はここに「台湾の縁」が絡んでくる。
冒頭で紹介した「台湾電力の父」松木幹一郎は、1908年に鉄道院秘書課長となった際、総裁の後藤新平に仕えた。松木は十河と同郷の愛媛県(現・西条市)育ちで、12歳年下の後輩であった十河を後藤に引き合わせた。それを機に、十河は後藤を〝生涯の師〟と仰ぐことになる。
これらの経緯は牧久『不屈の春雷 十河信二とその時代』(小社刊)にも詳しいが、「弔い合戦」として十河らは実現に向け奔走し、64年10月1日、東海道新幹線は開業した。
それから40年以上の歳月を経て、日本の新幹線技術は、かつて後藤が民政長官として近代化に尽力した台湾へと羽ばたき、人々の日常の足となった。もちろん、一部に欧州方式が混在するハイブリッドなシステムであり、課題がないわけではない。
それでも、元台湾高鉄資深顧問で、JR東海OBの大谷昌弘氏は、台湾新幹線への思いをこう語った。
「かつて多くの日本人が台湾の近代化に人生を捧げて貢献しましたが、その偉大な先人たちにも決して恥じないものにしたかった」
同社OBで様々な契約業務にも携わった渡邉清氏は「課題もあったが、日台間の禍根を残すことなく技術を継承し、台湾高鉄自身で運営できるようになった」と述べる。
新型車両N700STの第1編成は8月にも台湾に到着する見通しである。時を越え、海を渡った新幹線。この〝地続き〟ともいえる歴史のつながりは、まさに後藤新平が現代に引き寄せたように思えてならない。
令和の日本人は
未来に何を残すのか?
元東京都副知事で、後藤新平研究の第一人者・青山佾氏はこう言う。
「台湾で活躍した日本人はまさに、伸びゆく日本の象徴でした。しかし、後藤のような改革者はいつの時代も少数派です。あらゆる組織には常に現状維持派や保守派が存在する。だからこそ、逆風の中でも大きな変革を成し遂げた彼らの軌跡から、私たちが学ぶべきことは多いのです」
「烏山頭ダム」「蓬莱米」「台湾新幹線」──。一見すると、交わることのないように思える3つの点。しかし、点と点を結んでいくと、そこに浮かび上がるのは、「私益」ではなく「公益」を追求し、「短期」よりも「長期」を見据え、ただ単につくるだけでなく、その後の未来に思いを馳せていた日本人の姿だ。しかも、「実現しなければ信じてもらえない」ことをやり抜いたのだ。
もちろん、その陰には無数の台湾人たちの献身と協力があったことを忘れてはならない。原住民や抗日勢力の鎮圧に追われた暗部も含め、日本統治時代に光と影の双方が存在したことは歴史の事実である。
しかし、台湾の人々が今なお胸に刻み、語り継ぐこの歴史の記憶を、私たち日本人が知らないままでよいはずがない。
かつて後藤新平はこう言っている。
「金を残す者は下、仕事を残す者は中、人を残す者が上」
台湾の近代化に尽力し、尊敬される先人たちの事業と功績は、時を超えた今も、未来を担う新たな「人」を育てる源泉になっている。これこそが、かつての日本人が残し、日台が未来へと共有できる貴重な「財産」の一つなのではないか。

