2026年7月24日(金)

台湾「麗しの島」の実像

2026年7月24日

「蓬莱米」命名から100年
磯永吉と末永仁の名コンビ

 嘉南平原の大地に奇跡をもたらしたのは、八田與一だけではない。

 台湾の農業そのものを大きく変えた2人の人物がいる。「蓬莱米の父」磯永吉と「蓬莱米の母」末永仁である。奇遇だが、2人も與一同様、1886年生まれである。

 前出の古川氏は、與一の聞き取り調査を行っていた際、年配の農夫から不意にこんな言葉を掛けられた。

 「八田さんは、嘉南の農民なら誰もが知っていますが、台湾中の農民なら知らない者がいないという日本人が、もう一人います。蓬莱米を世に出した磯永吉博士です」

 またもや歴史に埋もれた日本人を知った古川氏はその後、2人の足跡をたどり、2022年12月、『台湾を愛した日本人Ⅲ』を上梓することになる。

 では、台湾の人々は2人の功績をどう評価しているのか。台湾大学出身で、磯永吉学会会員の井田良子氏と同大農芸学系兼任教授の彭雲明氏を訪ねた。

取材に応じてくれた井田良子氏(左)と彭雲明氏(右)。銅像は左から末永仁、磯永吉。作者は、「台湾の松下幸之助」こと奇美実業の創業者・許文龍氏だ

 井田氏は「台湾に来て初めて2人の存在を知りましたが、なぜこれほどの偉人が日本でほとんど知られていないのか、不思議でした」と語り、彭氏も続けてこう言った。

 「磯永吉は台湾の農業に劇的な変革をもたらした人物です。現代で言うなら、スティーブ・ジョブズのようなイノベーターでした」

 そこまで言わしめる磯永吉と末永仁とは、どんな人物だったのか。

 時計の針を当時の台湾へと巻き戻してみたい。総督府は製糖業と並び、米作の近代化にも力を入れていた。日本内地が深刻なコメ不足に陥っていたからだ。だが、当時の台湾で栽培されていたのは、オランダや清朝時代から続くインディカ種(在来米)であった。パサパサとした食感は日本人の口に合わず、日本へ移出してもなかなか買い手がつかない状況だった。そこで総督府は、日本人の口に合う粘り気のあるジャポニカ種(日本種)を台湾に定着させるべく、品種改良に着手。その最前線に立ったのが、のちに「蓬莱米」の代名詞となる新品種「台中65号」の育種に成功した技師・末永仁であった。

 末永は1910年、24歳で渡台した。徹底した現場主義者で、毎日圃場に出るのを日課とし、その姿勢は晩年まで変わらなかった。やがて末永は、台中公園の北側にあった台中農事試験場で、台湾の強烈な日差しによる「稲の老化」を防ぐ画期的な栽培法を発見。それを「若苗」と命名した。だが、なぜその方法が良い結果をもたらすのか、科学的なメカニズムまでは解明できずにいた。

 その科学的根拠を研究し、証明したのが磯永吉である。11年3月に台湾総督府の技手として台北に赴任後、技師へ昇進。台中農事試験場の場長に就任すると、末永を農場主任として迎え入れた。

 磯が構築した科学的理論は「若苗理論」として21年に発表され、台湾の稲作は歴史的転換点を迎えた。

 さらに末永は24年、台中農事試験場において「神力」と「亀治」の交配によって、新品種「台中65号」の育種に成功した。

 第十代台湾総督・伊沢多喜男は26年、台湾で栽培される日本種米の総称として、第19回米穀大会で「蓬莱米」と命名した。今年は命名からちょうど100年にあたる。

 やがて「台中65号」は圧倒的な耐病性と高い収穫量によってまたたく間に台湾全土へ普及し、34年には75万トンもの蓬莱米が日本へ移出された。これにより、台湾の米農家は豊かになり、台湾全体の農業地図も塗り替えることになった。

 末永は39年に圃場で倒れ、53歳で亡くなったが、磯は戦後も中華民国台湾省農業顧問として残り、57年に帰国するまで、農業指導を続けた。台湾大学でも教鞭をとったが、その期間は短く、磯の存在は時代の荒波の中、次第に忘れられる。

 歴史が再び動き始めたのは2003年のことだった。台湾大学の敷地内にある古びた木造小屋から、重大な資料が発見されたのである。

 前出の彭氏が当時を振り返る。

 「磯永吉の手紙や貴重な文献、当時の実験記録など、実に4000点にのぼる貴重な資料が見つかったのです。それらは現在、台湾大学の図書館に電子保存されています」

 この場所は「磯永吉小屋」と名付けられ、09年には市の史跡に登録された。現在は改修工事中で、再びその扉が開くのは、28年の予定だ。


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