2024年4月20日(土)

Wedge REPORT

2014年10月27日

 終活には、自身の最期を飾るべく「自分らしさ」を演出するとか、人生の「棚卸」をすることで残りの人生を充実させるといった積極的、自発的な一面がある。前例のないステージだからこそ、伝統や慣習に縛られずに動けるのだ。だが、自らが動かざるをえない状況があることも否定できない。

 終活の先駆け的な動きは1990年ごろから目立ち始めた。戦後、地方から都市へと流れた多くの人々が、都市部で新たな「家」を興した。多くは核家族で、「家」を継ぐ子がおらず、その老後が意識され始めたころだ。

 「娘ばかりで墓を守る子がいない」「墓は準備したが、誰が私の骨を墓まで運ぶのか」─。そんな課題に直面した人たちが生み出したのが、継承者がいなくても利用できる永代供養墓や合葬墓、樹木葬であり、死後事務処理などを家族以外の第三者に契約で委ねる生前契約システムだった。助け合いの色合いが濃かったといえる。

 国は死後のことに関して、ほとんど「家族」に頼り切ってきた。その家族の機能が揺らぎ、同時に死者が増え続ける(現在の年間死者数は約125万人。2030年には160万人)なかで、課題への挑戦から始まった終活が市場を巻き込み、もしくは市場に巻き込まれながら、その裾野を広げたのは当然の流れだった。

 だが、私は市場中心の終活には疑問を抱く。経済力で利用できるリソースが規定される市場に頼りきることには違和感がある。市場からサービスを購入することに目を奪われ、「損か得か」「合理的か効率的か」といった視点にとらわれないかとも懸念する。

 もちろん、医療や介護など福祉分野に市場原理を部分的に導入することで、効率的で質の高いサービスを生み出す準市場は有用だろう。準市場の成否は、公的規制がカギといわれるが、現在の終活市場はその「公」が弱い。たとえば葬儀をめぐる消費者トラブルが絶えないのは、規制がほとんどないことも一因だろう。その弱点を克服することが欠かせない。

 それは、死を個人に委ね切るのではなく、社会で受け止める「死の社会化」の考えにつながる。葬送や死後事務処理を社会的に支える仕組みをつくることで、だれもが死後のことを心配する必要をなくす。たとえば公営墓地を増やしたり、主にNPOが担っている生前契約に公的基準を設け、その信用力を高めて利用しやすくしたりする。

 熊本県が3月に発表した、墓地行政に関する報告書はこの点で注目される。これまで公衆衛生面からかかわってきた墓地について、老後の諸課題と同様に「生涯を通した安心の実現に向けた一連の課題」と位置づけた。単身世帯や家族・地域が守れなくなった遺骨を最後は行政が守るセーフティネットの視点での墓地整備にも言及する。


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