ちょうどその日は、4のつく日、巣鴨に縁日の露店が並ぶ日だった。しかも11月で眞性寺の「菊まつり」も重なって、ランチタイムの巣鴨地蔵通り商店街は大賑わいだ。
何でも大きな地蔵が鎮座するこの眞性寺は、18世紀初め、深川のある僧が、地蔵菩薩に祈願したことで難病から癒されたお礼に、江戸の出入り口6カ所に庶民の寄進を募って建てたもののひとつだとか。実は、今や巣鴨のシンボルである『とげぬき地蔵尊高岩寺』の方は、明治維新後の区画整理で移転してきた寺の一つで、江戸に遡れば、こちらの地蔵様が代表だったらしい。
ともあれ、この商店街が、“おばあちゃんたちの原宿”と呼ばれて久しく、高齢化社会の日本で、縁日ともなれば、この商店街は人生の先輩たちの姿でそれは活気づく。塩大福屋にせんべい屋、漢方薬局、赤い下着が揃う洋装店に老眼鏡に特化した眼鏡屋……としぶい店々が並ぶ。その間をずんずん進み、右手に郵便局が見えてもなお進み、人混みがふとまばらになった辺りの左手に、目的のそば屋『菊谷』はある。
主人の菊谷修さんは、昭和49年、この巣鴨で生まれた。現在の店が実家、父親の代で4代続く仕立て屋だった。
「ご先祖さんは武家だったのですが、明治になって何をしようかというので、横浜で外国人に出合い、いろいろ教わってテーラーを稼業にしたそうです」
仕立て屋に転向した思い切りのいい武士の名は、菊谷菊三郎。そして菊谷さんが、実家に戻ってきた平成22年まで、父親は、この場でテーラーを続けていた。
仕立ての文化が衰退する中、菊谷さんに稼業を継ぐ気はまるでなかった。文系の大学を卒業後、大手建設会社で7年間勤めたが、その後、脱サラ。約10年前、石神井公園で小さなそば屋を始めた。師匠は、弟子をとらないと言われる秩父の『こいけ』の小池重雄さんだった。「もともとそばは好きだったんですが、サラリーマンを始めて2年ほどした時から、そば打ちを始めた。25歳くらいですか。近所に暮らす叔父が、趣味でそば打ちをしていたんです。まあ、その叔父も趣味でしたから、上手になろうと本を買って勉強したりするうち、醤油やみりんを探す中で『神田和泉屋』とのご縁ができ、秩父のそば畑に通うようになった。その農家のそばを使っていたのが『こいけ』だったんです」