これが難民たちの間でささやかれていた言葉だ。もちろん、気候と巡り会う警察官の性格や気分にもよる。しかし、人を介さなければ、かかる時間と金はこれだけのはずだった。
季節は秋を過ぎ、冬の始まりを感じさせていたが、ファディ氏はマケドニア国境を目指して歩き始めた。ギリシャとマケドニアの国境は山岳地帯である。雪の中、何日も山を歩き、その行程は決して楽ではなかったが、国境には何度も到達した。しかし、国境には驚くほどたくさんのマケドニア警察官が配備されていた。ファディ氏は「数えきれないほど繰り返し」国境に辿り着き、数えきれないほど繰り返しアテネまで送り返された。
しびれを切らしたファディ氏が相談したのは、以前、家族をイスタンブールに呼び寄せる際に金を融通してくれた湾岸の顧客だった。アテネにいるブローカーのひとりに5000ユーロを支払うと、ギリシャ国籍の偽造パスポートと航空券がすぐに準備された。
ブローカーとの取り決めは「飛行機内のトイレで偽造パスポートを破棄し、どこのパスポートも持たない“難民”としてドイツに入国すること」だった。
しかし、フランクフルト空港へ到着してファディ氏が入国審査官に提示したのは、母国から隠し持ってきたシリアのパスポートだった。
空港内の警察署へ連れて行かれ、「どうやってきたのか?」と質問されると、今度は黙って偽造されたギリシャのパスポートを差し出した。
その後、ファディ氏が送られたのは、ギーセンという田舎町にある「アメリカン・キャンプ」と呼ばれる難民の収容施設だ。ここは大戦後、アメリカの兵舎だった大きな建物で、当時はシリアの他、アルジェリア、アルバニアなど様々な国出身の難民が3000人ほど収容されていた。
ファディ氏によれば、「非常に治安が悪かった」というアメリカン・キャンプから、現在、住んでいるフランクフルトの別の収容施設へと移されたのは、2カ月24日後の2015年4月25日。最初、フランクフルト近郊のバーデンブルクに送られそうになったが「大きい町の方が安心して暮らせる」と答えたところ、フランクフルトへ来ることが出来たという。
シリアからドイツに至るまでの間、ファディ氏が金を払ったブローカーは35人にのぼる。ファディ氏はあらかじめ作っておいた、ブローカー全員の名前、連絡先、そしてスマホで撮った顔写真をリストにしたものをフランクフルト空港の警察で提出している。
「難民から法外な金をまきあげるブローカーを取り締まってほしい」
温和な表情で話し続けていたファディ氏が初めて憤りを露わにした。
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「パパ、まだ?」
長時間にわたる取材に、さすがの子どもたちも飽きてきたようだった。私が持っているパイロット製の「消えるボールペン」に興味を持っているようなので、紙にひとりの子どもの名前をカタカナで書いて消すと「もう一度書いて」「私の名前も」とせがむ。
赤・青・黒の「消えるボールペン」をひとりずつプレゼントするとしばらくは静かに遊んでいた少女たちも、2時間を過ぎると限界のようだった。父親に何かをねだる子供たちに母親は少し険しい表情で何か言ったが、私には「フライドポテト」という言葉しか聞き取れなかった。
「5分だけ時間をください」
そう言うと、ファディ氏は子どもたちを連れてカウンターのある1階に降りて行き、Lサイズのフライドポテトを4つ注文した。フライドポテトはひとつ2.5ユーロ。会計は全部で10ユーロだ。慌てた私は「子供たちが退屈してお腹を空かせてしまったのは私のせいなので」と10ユーロ札を差し出した。しかし、ファディ氏は「子供たちに食べさせるのは自分の仕事。10ユーロは要りません」と受け取らない。
「今、NGOが新しいアパートに入れる家具を買うためのお金をくれると言っているのですが、それも断りました。ドイツ政府からは十分なお金をもらっている。ドイツ人には十分してもらった。私たちが家具を買うお金で、一人でも多くの移民を受け入れて欲しいからです」
マクドナルドに残って取材メモをまとめ帰路につくと、午後7時をまわったフランクフルトは暗くなり始めていた。自転車を走らせていくと、疲れた様子の小さな子どもたちの手を引く家族がいた。
ファディ氏一家だった。夜風は冷たくお腹は空いているが帰り道も徒歩。一人当たり数ユーロの地下鉄代がもったいないのだろう。手を振りながら自転車で通り過ぎて振り返ると、まだゆっくり寄り添いながら歩いている家族の姿が見えた。
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