『いわきより愛を込めて』

2016年7月7日

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海野 福田さんたちのような人たちと、ジャーナリストとしての山田さんの根底は似通っているんですね。

山田 物事に整合性を求めたり、納得感を求めることは、時にそれまでの関係性を壊してしまうことがあるかもしれないが、人間は一貫性を持つべきだと思うし、筋は通さなければならないこともある。福田さんや中谷さんのような人に会うと、「声を上げ続けて下さいね」と言いたくなる。

 ジャーナリズムとは記録することであり、”約束”を忘れさせないためにあると言っていい。もの事がなし崩し的に進んでいる中にあっても、きちんとした記録があれば「だってあの時はああ言ったじゃないか」と言える。 

 震災の後、あるところから原稿を依頼された。その時に「一般庶民に真実の情報を流せばパニックが起きるのがわかっていながら真実の情報を伝えるのはバカだ」ということを編集者に言われた。メディアは世の中をコントロールする側であり、「パニックで人が死ぬくらいなら、真実の情報を流す必要はない」というのがその編集者の言い分だった。しかし、ウソの情報に安心して“安楽死”をするよりは、本当のことを知って、その上で生死を判断できた方がいいと私は思う。

海野 既存メディアの震災報道に対するアンチテーゼを感じますが、山田さんはジャーナリストとして被災地に足を運び続ける中、今後はどのような点に着目したいとお考えでしょうか。

山田 戦争中の大本営発表と同じことが原発事故についても起きている。大本営発表にマスコミも追従したことで、国民の多くは最後まで日本の勝利を信じていた。そして、戦争に負けた後も「誰が勝つと言ったのか?」という責任の追及が徹底的に行われたとは言い難い。

 福島原発事故では、3日後にはメルトダウンと判定できる状況にあったが、メルトダウンが公表されたのは事故から2カ月後のこと。もしも数十年後になって、「実はプルトニウムも漏れていました」なんてことになっても、「責任者はもう亡くなっています」となるのが今の日本ではないか。

 メディアは責任の所在を常に明らかにしていかなければならないと思う。川内原発のような活断層の近くに位置する危うい原発が稼働している中、もし何かあったときいったい誰が責任の所在を追及するのか。

 いわきには、自分が物書きとして”ひっかかり”を感じるポイントがたくさん存在する。何万人もの人々がいまだに避難生活を続けており、被災地は踏みにじられた状況にあるのに、原発はなし崩し的に再稼動してしまった。定点観測的にいわきを取材することで、”なし崩し”の結末を見届けたい。

  
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