今年5月、台湾の新総統に就任した蔡英文総統について、自伝や評伝の類いの本が次々と日本で出版されている。海外の指導者の関連本がこれほどのペースで出版されるのは極めて珍しい。しかも、決して米国や中国のような大国ではない台湾の指導者だ。さらに、売れ行きもなかなか好調だという。いったいどうしてこれほど蔡氏への関心が日本で高まっているのだろうか。
「小英(英ちゃん)」
口火を切ったのは白水社の『蔡英文 新時代の台湾へ』(前原志保監訳、阿部由理香、篠原翔吾、津村あおい訳)。5月20日の総統就任式の日という絶妙のタイミングで書店に並んだ。この本は台湾では『英派』というタイトルで、2015年に台湾で出版されている。「英派」というのは、今回の総統選にあわせて蔡英文氏側が考え出したキャッチフレーズで、もともと党内に派閥を持たないフリーな立場であることを逆手に取った形で、自らのニックフレーズである「小英(英ちゃん)」にかけて打ち出したものだった。
蔡氏としては初めての自らの筆による自伝であり、その内容は、政治や外交、社会政策などに対する自身の考え方を、自らの内面を含めて明らかにしており、内容的に蔡氏という人間理解のためには最適な書だと言えるだろう。
初版6000部ですでに増刷を決めており、順調な売り上げを見せている。白水社では、蔡英文氏が2012年の総統選の際に刊行した『洋蔥炒蛋到小英便當(仮訳:タマネギ卵炒めから英ちゃん弁当まで)』という自伝についても、現在、前原氏を中心に翻訳を進めており、年内の出版を目指しているという。
『蔡英文 新時代の台湾へ』の後を追うように出版されたのが、毎日新聞出版による『蔡英文の台湾 中国と向き合う女性総統』という本だ。これは6月末に書店の店頭に並んだもので、蔡英文氏の伝記ではあるが、執筆したのは、台湾の大手週刊誌の記者だった張瀞文氏で、元のタイトルは『蔡英文 從談判桌到總統府(仮訳:蔡英文 交渉のテーブルから総統府へ)』それを、日本人の台湾に詳しいベテランのジャーナリスト丸山勝氏が翻訳にあたった。
内容は、前者が政治家・蔡英文を理解するための本だとすれば、これは政治家・蔡英文が生まれるプロセスを追った本だと言える。英国の大学から台湾に戻ったあと、偶然のなかで貿易交渉に長期間関わることによって国際交渉のネゴシエーターとして頭角を表していく経緯がよく理解できる。陳水扁政権では、対中交渉を任される「大陸委員会主任委員」に任命され、当初は女性で行政経験も浅いことから、その任に耐えうるか危ぶまれたが、中国との限定的市場開放である「小三通」など予想以上の成果を次々と出していくところなど興味深い。