75年にフランコが死に、カタルーニャ語の使用が許された。バルセロナでレストランを営むチャビ・アドメテヤさん(52)は独立派だ。「学校に行く前、母親に服を着せてもらいながら『外ではカタルーニャ語を話してはいけない』と何度も釘を刺された」と振り返る。地元メディアのブリュッセル特派員を務めるアルベルト・セゲラさん(34)も「フランコの戦車があの通りにやって来たと祖父がいつも話していた」と目抜き通りを指差した。79年に自治州となったカタルーニャは中央政府に協力しながら自治権を拡大させてきた。
独立運動と言っても最初は自治権と、言葉や文化の違いを認めてもらうのが目標だった。世論調査を振り返ると2005~06年ごろまで独立を支持する世論は15%にも満たなかった。多数意見は自治州としての現状維持派で40%。連邦制への移行を求める声が30%余だった。それが今や独立派が50%近くに達する勢いを見せる。
なぜか。同州第2の都市ロスピタレート・デ・リョブレガート自治体の広報局長ベゴニャ・バローさん(48)は「中央政府が理不尽なノーを突きつければ突きつけるほど、カタルーニャの独立心は燃え上がる」と解説する。
英国の地域政党・スコットランド民族党(SNP)が主導するスコットランド独立運動と、カタルーニャのそれは歴史的に似ているようで、実相はまったく異なる。スコットランドではSNPが強く出て、英国の中央政府が譲歩する一方、カタルーニャの独立運動はスペインの中央政府の強硬策が火をつける形となっている。
面白いエピソードがある。14年9月、スコットランド独立が否決された住民投票の翌日、スペイン紙に風刺画が掲載された。大衆酒場で一緒になったカタルーニャ人がスコットランド人に話しかける。「スペイン政府が英国のキャメロン政権のようであれば、カタルーニャも住民投票ができた」。スコットランド人が言い返す。「英国政府がスペインのラホイ政権であればスコットランドは独立できていた……」。
スペイン政府とカタルーニャ自治州は国会で多数派を形成するため十数年前まで持ちつ持たれつの関係だった。しかし「あの日を境に状況は一変しました」とバローさんは続ける。フランコ政権の流れを汲み、スペイン・ナショナリズムを掲げる国民党のアスナール政権が00年総選挙で絶対過半数を獲得した。カタルーニャの地域政党の協力を得る必要がなくなってから、再中央集権化の動きを見せる。
これに反発してカタルーニャは05年、「カタルーニャはネーション」と規定し、スペインを連邦的な国家にしようと試みる新しい自治憲章を制定した。しかし国民党や他の自治州が反対し、憲法裁判所は10年、「カタルーニャの新自治憲章は憲法の定める『スペインの揺るぎなき統一』に反している」という違憲判決を下した。憲法裁といっても裁判官の大半は国会や内閣によって推薦される。このため、時の政権の影響を色濃く受ける。バルセロナで110万人が参加した抗議デモは「私たちはネーションだ。決めるのは私たちだ」と大声を上げた。