2024年12月10日(火)

古希バックパッカー海外放浪記

2017年11月19日

(2016.6.18.~9.14 89日間 総費用18万2000円〈航空券含む〉)

レストランで料理を待つ間に

 7月19日。夕刻、充実したローカル・フードを食べようとヴァシュシトの中心部にある地元で評判のインドレストランに入った。マトン・ターリを注文。隣のテーブルでブロンドのご婦人が一人で食事をしていることに気付いた。挨拶するとガリーナと名乗った。ロシアのロストフ出身で現在はモスクワ在住。失礼ながらお年を聞くと55歳で退職したばかりという。優雅な雰囲気のご婦人で40代にしか見えない。

ヴァシュシトの村祭り

 ガリーナは大学で電気工学を専攻した電力技師。毎年夏休みは欧州で過ごしていたが、今回は引退して十分に時間に余裕があるので2カ月の予定でインドを旅行しているという。

独ソ戦の本当の悲劇は勝利の後に

 55歳という年齢を聞いた瞬間に、ソ連邦のエリートとして学生時代を過ごしてソ連崩壊後の激動時代を生き抜いて来たのであろうと想像した。彼女の英語力や話し方から相当の知識人という第一印象を受けた。

ヴァシュシトの村外れの沢でくつろぐ外人観光客

 ガリーナは高校生まで故郷ロストフで育った。ロストフという地名を聞いて児島襄の歴史長編『ヒトラーの戦い』”の対ソ連電撃戦「バルバロッサ作戦」を思い出した。そんな話をすると“スターリングラードやロストフにおける赤軍とソ連邦民衆の英雄的対独解放戦争の物語”は小学校以来耳にタコができるほど教育されたという。

ヴァシュシトのパワースポットの滝

 しかし、ロストフではドイツ軍に一時的に占領されたことが独ソ戦勝利後に悲劇をもたらしたという。スターリン指導部は一部市民がドイツに協力したと疑い、さらには独ソ戦勝利後もドイツのスパイとして活動していると疑っていた。そのため赤軍がドイツ軍を放逐してソ連の施政下に戻ると対独協力者、潜在的スパイの容疑者として多数の市民が摘発され処刑されたという。
ソ連邦時代には公式記録としての“対ファシスト英雄闘争”のみが強調されて、当然ながらこうした暗黒の史実は抹消されていたという。

ドニエプル水力発電所はレーニン・スターリンの偉業

ヴァシュシトの村の子供たち

 ガリーナは少女のころから数学や理科が得意で地元の高校でもトップクラスだった。1961年生まれの彼女の中高時代は1970年代半ばでありブレジネフ書記長率いるソ連共産党による共産圏支配体制が盤石の時代であった。

 ロストフはドニエプル川に近くドニエプル水力発電所は地元の誇りであった。1930年代の完成時には欧州最大であったようだ。その後豊富な電力を利用して一大工業コンビナートが形成されていった。地元では電気技師は最も尊敬される職業であった。 

 こうした環境の中で成績優秀な少女ガリーナは高校の共産党指導部からモスクワ大学で電気工学を専攻するように推薦を受けたという。ガリーナの家族も大いに喜んで一路首都モスクワ行きの汽車に乗った。ここまではソ連邦時代の田舎の優秀な子供の典型的なサクセスストーリーである。

農家の主婦が手編みの子供服を売っていた

世の中は不公平に満ちていることを悟った大学時代

 才色兼備のガリーナはモスクワ大学で頭角を現し共産党に入党。ブロンド美人の若き日の彼女が“キャンパスの花”であったことは容易に想像がつく。そして専門課程に進むと夏休みを利用して実習が始まった。専門の発電分野での実習なので当然発電所に配属される。この実習配属でガリーナは毎年夏にシベリヤや極東の発電所で過ごすことになった。ところが共産党幹部の子女は東独、チェコ、ハンガリーなどの“外国”で楽しい実習生活をエンジョイ。

マトン(山羊肉)カレー

 明らかに共産党幹部子弟への優遇措置であり特別の背景(background)を持たないガリーナは“実力で勝ち抜かなければ共産党支配体制の下では何も獲られない”と心に刻んだ。


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