2024年12月22日(日)

日本人秘書が明かす李登輝元総統の知られざる素顔

2019年5月10日

李登輝元総統の唯一の日本人秘書である早川友久さんが、かつて李登輝氏が発した「二国論」の背景を解説しつつ、そのレトリックを日本はもっと活用できると説きます。

写真:ロイター/アフロ

 1999年7月、李登輝は台湾を中華人民共和国からも、中華民国からも引き離す決断をした。いわゆる「二国論」発言である。

 1991年に「動員戡乱時期臨時条款」の撤廃を進め、中華人民共和国と、台湾を統治する中華民国の「内戦状態」は終了した、と宣言した。これによっていわば、中華民国が「いつかは中国大陸を奪還する」ことを目的に掲げた「大陸反攻」政策は終わりを告げ、国力を台湾の発展に使うことが出来るようになった。

 一方、中華人民共和国は相変わらず台湾を「中華人民共和国の領土」として主張し続けていた。1997年には香港が英国から返還されたことで、いよいよ「次は台湾」の気運さえ立ち上っていた。

 そうした状況のもと、李登輝の頭の中には、もちろん中華人民共和国でもなく、目下統治している中華民国ともまた異なる、台湾として歩みを進めていこうという青写真があった。

 この構図は非常に複雑で、台湾を応援したいとする日本の人々のなかでも誤解している場合があるので改めて整理してみたい。

国名がどうであれ、台湾は台湾

 第二次世界大戦が終わり、台湾は日本の統治下を離れた。日本がアメリカの占領統治を受けたように、台湾は中華民国による占領統治を受けていた。その一方で、中華民国の国民党は中国大陸において中国共産党と、どちらが正統に中国を代表するかを争う「国共内戦」を戦っていた。

 結果、中華民国は敗れ、文字通り国ぐるみで台湾へと逃れてきた。中国共産党が中国大陸を有効に統治することとなり、1949年には正式に中華人民共和国の建国が宣言されたのである。

 しかし、中華民国は「いつかは中国大陸を取り戻す」という姿勢を崩さなかった。そのため、内戦中から敷かれていた「動員戡乱時期臨時条款」を台湾に移転したあとも引き続き施行し、国家の資源を「大陸反攻」へ注ぎ続けたのである。

 この「動員戡乱時期臨時条款」に終止符を打ち、両岸が置かれた状況を変えようとしたのが李登輝だった。簡単に言えば、中華人民共和国であれ中華民国であれ、中国大陸との繋がりを捨て去り、台湾だけでやっていくことに決めたのが李登輝なのである。

「このままでは台湾はその存在を失ってしまう。遅かれ早かれ中国に飲み込まれてしまうだろう」と李登輝が危機感を持ったのには理由があった。1997年に香港が返還され、同年には主要な国交締結国であった南アフリカまで失った。これによって台湾の国際社会における生存空間はますます狭まり、中国は台湾統一工作を加速させていたことから、李登輝としてはどうにかして台湾の存在を維持する方法を模索していた。

 その頃の李登輝の頭のなかはこうだ。

「台湾は戦後長らく、(台湾を統治する)中華民国と中華人民共和国が内戦中という前提だったために国力をそがれてきた。しかしもはや台湾は対岸の中華人民共和国とは何ら関係ない。台湾はもちろん中華人民共和国の一部でもないし、中華民国の『一省』でさえない。これからは「台湾は台湾である。そう言い切るのが難しいのであれば、『中華民国は台湾にあり』と言い換えても良い。とにかく、国名がどうであれ台湾は中国大陸とは切り離してやっていくんだ」ということだった。だからこそ、それまで存在した「台湾省」を凍結し、自らも経験した省主席のポストも廃止したのだ。


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